衣食住遊 イセヒカリ 今日無事生かして頂いてありがとう御座います

2014年11月25日

新米もってきたよ!



脱穀したモミに草の種もたくさん混ざっていてそのまま精米するとその草の種が混ざってしまう。ので唐箕で飛ばすことに。

この草の種が問題



飛ばす前


飛ばしたあと


玄米にして


新米は白米に


新米おいてきたよと母に連絡。
母親も田んぼで働く様子をみていつも心配していたので無事に米になって喜んだ。

うちの場合は父親の代から米を作らなくなった。専業農家だけどその時期は野菜の苗作りでとても田んぼのことをやっていられないのと、「買ったほうが安い」
という高度経済成長時代的な考がある。
それがあって今の自分があるので文句は言えないけど。
専業農家なのに主食の米を作っていない。
どこか違う気がする。

でもきっと父もいつか作りたいと思っているはずだ。


仏壇にお供えした新米


80すぎて細くなった身体で手にぺっと唾をはき長いハゼ掛けの棒を担ぎあげた祖父の背中はかっこよかった。
いまでも記憶にしっかりのこっている。


かわいがっていた孫が米を作ってもってきたら嬉しいに違いない。

孫のかわいさはまだわからないし、肉体を失ったあとで感じる人の思いというのもわからないけど、たぶんこの世で食べるよりもおいしいんじゃないかと想像する。

それは肉体後のお楽しみ☆

  

Posted by HAPPY BIRTH CAFE at 07:03Comments(0)料理教育自然回帰

2014年10月05日

長谷寺秋分祭 餅つき


2011年からスタートした長谷寺秋分祭というお祭は今年で4年目。

http://www.youtube.com/watch?v=1EILVdieF1A

2012長谷寺秋分祭② 絵解き・岡澤恭子.wmv
http://youtu.be/0aZxa7ggXFY


長谷寺がある長野市篠ノ井塩崎という場所は実家があり檀家で小さい時このあたりでいっぱい遊んだ。

お祭り日というと母親が朝早くからかまどでもち米をふかしごまとあんこのおはぎを作っていたのを思い出す。

最近では家であんこを作ったりおはぎを作ることも少なくなったがあんこのお餅などを食べることだと思っているのかもしれない。

なんとなくおはぎと抹茶を用意したのはきっとそのせいだ。
http://www.youtube.com/watch?v=02DvKqxSANE

そして4年目をむかえた2014年の長谷寺秋分祭ではみんなで餅つきをしてふるまうことになった。

それは面白そうだと思い、餅つきの係りになった。

しかし、、、たくさんの人にふるまうのにどれくらいの量が必要なのか、必要な道具や手順がわからなくて困ってしまった。
それが祭りの一週間前のこと。

どうしようもなく困って、毎年、春や秋のお祭りにおいしいあんこのお餅を作ってもってきてくれる親戚のふさこさんに相談した。

お彼岸に頂いたふさこさんのヨモギもち。


ふさこさんにいろいろとアドバイスしてもらったうえ、当日も一緒にお餅つきに参加してもらえることに。
奉納にと餅つきのもち米と小豆をいただいてしまいました。

お餅やあんこの作り方も教わりました。

200人分ぐらい用意いたいと言うともち米はこれくらい必要で小豆はこれくらいとか分かるのがすごい。

米6升と小豆一升五合

いろいろ教えてもらいました。
もち米は一日前に水に漬けて水できるだけ透明になるように洗い水から米が出ないように注意すること。

かまどの使い方(かまどに水を入れるとは知らなかった。それが漏れていないか)。
臼や杵の用意(水につけてくっつかないようにする)。

小豆の上手な煮方。30分水につけて水をかえ30分煮て水をかえて煮る。

大福にするときのあんこの硬さと餅につけて食べるならこれくらいの硬さとか、お皿は紙皿だとくっついて大変だからだめだとか。
餅つきのときはご飯とお湯を入れると硬くなりにくとか。
甘いのがダメな人がいるかもしれないから大根おろしも用意した方がいいとか。
とにかくいろいろ教しえてもった。

前日には自宅におじゃまさせてもらいあんこをいっしょに練る。


ふさこさんが祖母が畑帰りに子どもを連れていないのを見て「こうちゃんはどうしたの」と言われ祖母は畑に置き忘れて帰ってきてしまって行ってみたらもろこしの間に寝ていたとか。


「この小豆はね、長谷寺の鐘の音を聴きながら育った小豆なんだよ」

とかそんな話をしながらあんこを一緒に作った。

餅つき当日


みんなで臼を重い運ぶ。



丁寧に梱包されていた杵。
いい道具は管理も大変。


純ちゃんがもってきてくれたかまど。
煙突がなくてそこらへんにあったトタンをワイルドに代用。


実家にあった羽釜


ハイセンスな飾り付け


なんだか昭和っぽい。


子どもも餅つき


大人も。


ふるまいの様子
ふさこさんの家のお嫁さんやお姉さんも参加してくれました。


落ち着いてからお気に入りの長谷神社上社に行って山の神様にみんなのお餅をお供えしていっしょに食べた。


ほっとする瞬間。


今回とてもよかったのは子どもたち地元の材料をつかい昔ながらのかまどや羽釜、臼や杵を使って作るお餅つきを経験させてあげられたこと。


たくさんの人の協力があってはじめてできた餅つき。

子ども達が大きくなったとき、どこかにこの記憶が残っていればその子どもたちにおいしいお餅を作ってあげることができる。

自然や先祖のもてなしに感謝し、次の世代にもてなす。

祭りというおもてなしの文化。

みんなでついたお餅は家のお墓とお白助さんのお墓とお供えし、最後に実家の両親にもっていった。

先祖もいっしょに楽しむ。

おいしいものはみんなで作ってみんなで食べるともっとおいしくなる。

そして抹茶を飲む


五穀豊穣 子孫繁栄  

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2014年04月17日

茶道がより多くの日本人に理解してもらえるには

茶道を習ったことはないけど時々抹茶を楽しむ。

餡子などの和菓子をべるときに抹茶がほしくて抹茶をかき回すようになった。

手頃な茶筅と茶杓を買った。

器はどうしようと思っていたが五年前の今頃、善光寺西の門で地元の陶芸家である朝比奈克文さんの個展で蓮花の器を見つけた。

この器で抹茶が飲みたいと思い購入。

お気に入りの器で楽しむ甘い和菓子。

先日職場の人から「かすていら」をもらったので抹茶を点てた。

その時、雑誌を茶道のことが書いてあり、より多くの日本人に理解してもらえるには「一つはさまざまな制約を緩くして垣根を低くすること」とあった。
その記事を読んでやっぱりこれでいいんだと思った。

ただ甘い和菓子に抹茶が飲みたくて茶道を始めました。

誰にも習ったことはありません。

自分へのおもてなし。


Japanist ジャパニスト 2009 spring No.1
対談
千 玄室+中田 宏
p28 日本人の果たすべき役割
より抜粋しました。

中田
茶道がより多くの日本人に理解してもらえるには、どうしたらいいかという議論になると二つの意見に集約されると思います。一つはさまざまな制約を緩くして垣根を低くすること、もう一つは時間はかかるかもしれないが、あまり垣根を低くしないで茶道の基本をきちんと教えるということ。大宗匠はどちらの方法がいいと思われますか。


どちらもそれぞれ正しいと思います。本来こうでなくてはいかん、ということはあまりないのですよ。私は世界のいたるところでお茶を教えてきましたが、けっこう自由にしています。もちろん、お茶の基本はきちんと押さえていますが。また、私どもでは毎年「和の学校」と称して、親子でお茶を点てる教室を設けていますが、これがかなりの評判なのです。三人の生徒に対して一人の先生がつきますから、一度に大勢はできないのですが、親と子どもがいっしょになってお茶を点て、供し合います。お辞儀の仕方に始め、マナーも教えます。子どもに和菓子を作らせ、親に食べていただきます。それだけのことで、親子の間に驚くほど気持ちが通じ合うようになるのです。

中田
見知らぬ人同士でも同じ茶室に入れば自然と和し合うのはお茶の力ですね。


茶室に入る躙り口は利休が考案したものですが、その意図は、どんなに地位の高い人でも「ただの人になってから入ってほしい」ということを無言で教えているのです。特に当時は武士階級が絶大な権力を握っていたのですが躙り口から入る時は帯刀も許されず、身を屈し、頭を低くします。その時、自分の足元を見つめることになり、自分を省みるという心が生じます。そこに心の転機がおこるのです。

中田
最近、若者の流行言葉でKYというのがあります。「空気を読めない」人のことを指すのですが、私はあの言葉に一縷の望みを託しています。つまり、その場の雰囲気を読むことの大切さを表現しているからです。それは気配りにもつながると思うのです。


人間関係においても気配りがもっとも大切です。「自分のため」だけではなく「他の人のため」という発想。英語で言えば、「エクスキューズ・ミー」や「アフター・ユー」ですね。失礼します、お先にどうぞ、という相手をたてる気持ちです。

中田
未曾有の不況と言われていますが、そういつ状況にあって、これからの日本人が果たすべき役割とは何ですか。


人間性の回復には日本の「道」がもっとも有効だと思います。とりわけ茶道は総合芸術ですからね。造園(茶庭・露地)、建築(茶室)、陶芸(茶碗・茶入・花入)、手工芸(漆器・木工芸)、花(茶花)、作法(点前手続き・礼法)、取り合わせ(茶道具その他の飾りによる)など、いずれも長い年月をかけて培われてきた日本文化の結晶が茶道です。和し合うことを根本とする日本文化は、互いに主張し合っていがみ合う世界情勢にあって、非常に有効な解決方法だと思います。そういう気持ちもあって、私は五十年以上に及ぶ茶の世界行脚を続けているのです。

抜粋以上



今回もやっていました。終わってしまったけど機会があったら行って見てください。とっても素敵です!
http://www.kantenpp.co.jp/papa_shop/html/view_1121.html  

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2013年12月18日

おもてなしの原点


今年の流行語の「おもてなし」

一般的におもてなしは茶道を連想させ、茶道といえば千利休。だがその元をたどっていくと村田珠光という人にたどり着く。
その村田珠光は座禅のときに眠くなりそこへ一休宗純がお茶をすすめてくれたことがきっかけとなり茶の道を学ぶようになっと言われている。
ということは茶道の原点は一休宗純の一杯のお茶が始まりだったのではないかと思えてくる。
座禅の時に寝てたら叩かれのが普通だが一休和尚はお茶をいれてくれた。
その人の全てを受け入れる寛容さに癒しに感じたのではないかという気がする。
そこがおもてなしや茶道の原点であり母性だったのではないかと思う。


一休さんの人生におもてなしの原点がある。
一休さん 第1話
http://www.youtube.com/watch?v=lwt8YhFzLt4&feature=youtube_gdata_player


庶民に愛された反骨の破戒僧
【 あの人の人生を知ろう 〜 一休 】
Ikkyu Sojyun 1394.1.1-1481.11.21
http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/haka-topic16.htmlより転載しましす。
●茶
侘び茶を創始し、茶室を考案した茶道の祖、堺の豪商・村田珠光(じゅこう)は一休の禅弟子。座禅の時の眠気防止に一休から茶を薦められたのが、そもそもの茶との出合いだったが、座禅を繰り返すうちに“茶禅一味”(いちみ、茶も禅も同じ)の悟りに達した。彼が始めた「侘び茶」は、従来の派手で形式中心の「大名茶」とは全く異なるもの。小さな四帖半の茶室の中では、人に身分など関係なく、そこにあるのは亭主のもてなしの心だけ。この心が仏だとした。まさに一休から学んだ「仏は心の中にある」であり、珠光は仏の教えをお経を通してではなく、日常生活(茶の湯)を通して具現化した。この思想は武野紹鴎(じょうおう)を経て千利休へと受け継がれてゆく。


アニメに出てくる“しんえもんさん”は蜷川新右衛門と言って実在する一休の弟子。初めて一休を訪れたとき、彼は「仏法とは何ですか」と質問し、一休はこう答えた。
「仏法は 鍋の月代(さかやき) 石の髭 絵にかく竹のともずれの声」
(石のヒゲや絵の中の竹の葉ずれの音と同じで、そんなの見たことも聞いたこともないわい)
この人をくったような返事に新右衛門はシビレたという。

「持戒は驢(ろば)となり 破戒は人となる」(頑固に戒律を守るのは何も考えず使役されるロバと同じ。戒律を破って初めて人間になる)

「秋風一夜百千年」(こうして秋風の中で貴女と過ごす一夜は、私にとって百年にも千年の歳月にも値するものです)

●奇行伝説
一休は町に出る時、よく美しい朱塗りの鞘(さや)に入った刀を持っていた。ある時不思議に思った人が「なぜ刀を持っているのですか」と質問したら、一休が抜いた刀は偽物の木刀だった。そして「近頃の偉い坊さんどもはコイツと同じだ。派手な袈裟を着て外見はやたらと立派だが、中身はホレこの通り、何の役にもたたぬわ。飾っておくしか使い道はござらん」と言い放った。

トンチ話
一休の生涯を見ていると、「渡るべからず」の物語は、ただのトンチの披露ではなく、世間の束縛やくだらない慣習は無視して「堂々と橋の真ん中を渡って行け!」とメッセージを込めたエールのようだ。

以上転載


一休さん 〜ははうえさま〜
http://www.youtube.com/watch?v=HKOpvoaN0ps&feature=youtube_gdata_player







  

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2013年02月08日

茶道の教科書『茶味』⑶茶道の由来



二 茶道の由来

所謂茶道は利休によって大成せられたもので、茶の話をするものは利休々々という。その利休をして茶道を大成せしめたのは、その師紹鷗とその弟子宗啓とである。それで茶道を説明するには、是非ともその師弟三伝する間を考察する必要がある。
普通茶祖といわれているの珠光(1422〜1502足利義政時代)である。珠光は幼名を村田茂吉といい、南都称名寺に住し、三十歳頃から紫野大徳寺一休和尚に参じた。一休和尚から法信として圜悟禅師の墨跡を受け、庵中にかけて香華を供え、湯をわかし、茶を点て、同好の友、引き拙・宗悟・宗陳等を招いて、閑談雅話、興を塵外によせて、礼を厚くし行を正しくして交わった。又茶道という一書を編んで禅師に呈し、茶を悟道の階としたと伝えられている。これから察すると珠光の点茶は既に式法の点茶でなかった。悟道の妙味が之に加っていた。
紹鷗(1502〜1555)は初めは歌を三條実隆に学び、後茶の道の風流を聞いて珠光の後を追い、宗陳・宗悟に就いて其の蘊奥を極め、又古岳和尚に参じて禅を学んだと伝えられている。それで紹鷗の茶には歌の基礎があり、式法があり、禅味があることを忘れてはならぬ。当時、御調台飾りや書院飾り等の形式で飾り立てられた舶来の美術品が人を幻惑せしめ、器物は只珍奇華麗でさえあればよいとしていたのに対して、紹鷗は茶器のし標準を改める、品質を清素にし、飾り付けを簡単にして、草の茶器を工夫し、草の座敷に取り用い、所謂草の茶味を定め之を愛好した。
かく転化せしめた紹鷗の心には、明らかに器物その物よりも器物を動かす心の動きが重くうつっていたのである。このゆきかたは、支那文化丸呑み込みで、中心も秩序もなく、只漫然と飾り立てていた当時の装飾法に一新傾向を開いた。この心持の上に組み上げられた茶法を、
紹鷗も利休もわび茶と呼んだ。紹鷗はわび茶の心を
見渡せば花も紅葉もなかりけり
うらのとやまの秋の夕ぐれ
といえる定家卿の歌の心そのままなりとなし、之を茶境の説明とし、茶道を以って『一心得道の取りおこなひ形の外のわざ』なりというている。
その紹鷗に師事した利休(1521〜1591)は初め易庵に茶を学んだ。易庵は能阿弥の流れを汲んで、式法の方面から茶にくわしかった人である。利休はこの易庵の式法の茶の上に、紹鷗の心の茶を加えて所謂わび茶を大成した。かくて『家は漏らぬ程食事は飢えぬ程』と言える安易の天地に悟入し、この間に生活の理想を求め、その倹素な生活、換言すれば物欲にけがされない知足安分の生活の中に、純一無雑の境を開こうと企てた。
花をのみまつらん人に里山の
ゆき間の草の春を見せばや
の一首を以て、物欲の世界からはなれて、始めてあらわれ来る心の貴さを謳歌した。この内省の方面に更に明かな眼を開き「技の利休」が「道の利休」に悟入したのは、愛弟子宗啓を得て之を導き、はた自らも導かれつつ、その禅味を一層深からしめてからである。かくて利休はこの道をゆく人のえて陥り易い遁世の弊をさけ、貴い心の生活だけをねらった。さる人が利休に茶の湯の極意をたづねた時、
『夏にはいかにも涼しきやうに、冬にはいかにもあたたかなるように、炭は湯のわくやうに、茶は服のよきやうに、これにて秘事はすみ候』と答えた。心の生活は世事をはなれたる境地に非ずして、平時の行為そのものの中にあるべきをいうたのである。客は呆気にとられて、「そんなことなら誰も合点の前である」というた。利休は「それならば右の心に叶う様にして御覧ぜよ、宗易客に参りて弟子になるべし」というている。三歳の童子も知り易いが八十の老翁も行い難しと、鳥宀八果和尚がいわれたと一般で無一文の境界、平々凡々の間で、尚能く人を感ぜしめることの出来るのは、貴い心のひらめきより外にはない。
然るに、豊臣秀吉は其の功臣達に与うべき領地がなくなった時、之に代わるべき方便として手づから茶器を与える事を発明した。所謂器物拝領がこれである。かくて茶器は伝家の重宝となり、領地にひきかえてもというような執着心がわき、所謂拝物領飾りとか、拝領物扱いとかいう、飾り方や扱い方まで工夫せられて、純一無雑の境地に物欲の汚れを導き、省謂わび茶は骨董いぢりになり始めて、茶は道から離れるようになった。 時運非なりと諦めた宗啓は、利休自刃の後一年、利休忌を営み、漂然と庵を捨てて、そのもの跡を晦ました。
豊臣氏の後をうけた徳川氏は茶を政策に利用した。即ち家作りに数奇を凝らし、扱うに珍奇を競わしめたので所謂骨董いぢりが更に助長せられた。かかる間に茶道の根本精神は次第に忘れ果てられ、習う人は徒らに形の末を模倣し、遂に茶は日常生活から離れ去って、徳の生活にあくがるる人は『茶を弄ぶ者は家道を失ふ』と戒め、之を蛇蝎視するに至った。然しながらよく味わって見れば、茶道の道は貴むべき徳の生活である。惜しいかな、この貴い光がおおわれ、貴い跡が埋れて、茶道は骨董いぢりを本体とし、秘伝口伝の形式ばかりを特色とする珍妙な遊芸となり果てた。併しその本来の面目を失わしめた流弊をあらい去って、生活の準拠となるべき茶道の真諦を学ぶということは、今日の如き混沌たる世に処して如何に生活すべきかを知るために、貴い光と力とを得ることだと思う。








  

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2013年02月04日

茶道の教科書『茶味』⑴


茶道を学びたいと思っていた自分は一冊の本に出会った。

奥田正造の『茶味』である。

誕生日にお茶会をした時に頂いた。

本をプレゼントしてくれた諏訪さんは現在戸隠で自然農で畑や田んぼ作り又永年物創りをして自分たちの経験してきたことを一緒に学びあう場を造っている

自然法爾・生きるを学ぶ「ゆったり庵」

春にオープン予定だそうです。




諏訪さんに茶道のことを尋ねた時に奥田正造の話になった。

奥田正造は「法母庵茶道」としてその教えを受けた人たちによって受け継がれ、教則本も出版されているが家元・流派を称することはしなかったという。

自分の思っている茶道の世界のイメージとは違い興味をもった。

なんだかアナーキーな感じがした。

そしてこの諏訪さんの奥さんはこの奥田正造のお弟子さんに実際に茶道を習っていたということである。

読んでみると漢字や言葉が難しく読みにくい本だがこの世界観はすごいと思った。

現在は出版されていないようでとても残念である。


奥田正造の『茶味』をこれから少しずつ紹介します。



奥田正造と『茶味』

谷 晃

かつては多くの人が茶の湯を楽しんでいたにもかかわらず、最近の生活様式の変化などで茶の湯人口が減少しつつあると囁かれてからすでに久しい。しかも若者の茶の湯離れがはなはだしいと嘆きも聞かれる。しかし私は、現在の若者たちが茶の湯に興味を失ってしまったとは思っていない。むしろ潜在的に多くの若者たちが茶の湯に関心を抱きながら、既存の茶の湯にたずさわる人たちが、その気持と意欲を掬い上げることができないところに大きな問題の一つがあると考えている。ではなぜそうした若者たちを掬い上げることができないのか、それはよく言われるように若者たちが大人にとって異星人になってしまったからではなく、むしろ既存の茶の湯が、若者たちの真摯な問いかけに答えきれないところにも一因があるのではないかと思う 。
世の中の大人たちが若者たちに対して違和感を抱くのは別に現代に限って見られる現象ではなく、大袈裟にいえば人類の歴史が始まって以来、洋の東西・地球の南北を問わず普遍的に存在していたことであり、大人たちはいつもとまどいを禁じえなかったのである。その時々の大人たちはあるいは説得し、あるいは若者たちに委ねながらも、世代間の対立や行き違いが続いてきたのが人類の歴史の一面であるといってもよいだろう。
すなわち現在の茶の湯が直面しているのはまさしく世代間の行き違いであって、大人たちは、つまり既存の茶の湯がいかにすればその行き違いを解決できるかによって、これからの茶の湯のあり方が大きく異なってくるに違いない。
その問題の解決に重要な示唆を与えてくれる書物が、奥田正造という人物によって署された『茶味』ではなかろうかと、私はひそかに考えている『茶味』はそれが上梓されてしばらくは、学校の教科書にも取り上げられたりして、茶の湯の世界だけではなく世間一般にもずいぶんと注目されたにもかかわらず、長らく絶版なっていたこともあり、最近ではあまり顧みられることもなく忘れ去られつつある書物のように見受けられる。しかし、その内容は含蓄に富んでおり、また著者の奥田正造の生き方そのものも、現代人にとっておおいに啓発されるところが大きい、すぐれた書物であるということができよう。
『茶味』の筆者奥田正造は、明治十七年(1884)飛騨高山に生まれ、第一高等学校から東京帝国大学に進んで心理学を修め、いくつかの女学校を経て成蹊女学校に転じてその校長となる。成蹊女学校時代に居宅を学校敷地内へ移し、
そこに茶室法母庵と不言案をたて、終生そこを移ることはなかった。彼は『茶味』に書いたそのままの生活をそこで実践し、またその思想の根幹において女子教育に挺身するかたわら、長野県を中心に各地で講演と茶の湯の指導を行い、『茶味』にしめした茶の湯の普及に生涯を捧げ、昭和二十五年三月九日に没した。享年六十七歳。
奥田正造が『茶味』を署したのは大正八年(1919)三十六歳の時であるから、この時期には彼の茶の湯の思想はほぼできあがっていたのであろう。事実その後は執筆依頼があっても、「自分の考は『茶味』に言い尽くしている」といって、茶の湯に関する署述はほとんど断っている。
中略
奥田正造の茶の湯の基礎は幼時に表千家流を学ぶことによって培われ、さらに大学卒業後に有楽流を学んで手前についていろいろ考えたうえで独自の手前を考案し、現在もなおそれは「法母庵茶道」としてその教えを受けた人たちによって受け継がれ、教則本も出版されている。とはいっても家元・流派を称することは彼の排することであるから、それを奥田流手前とか法母庵流手前とか称することはなく、あくまで教えに忠実であることを旨として、多くの人々が研鑽を続けている。
奥田正造の生涯をたどってみると、『茶味』はその茶道論を述べた書物というよりは、彼が到達した仏教と茶の湯の基底に据えた「真の生活」の樹立宣言書と見ることもでき、以後彼は「茶味』に述べた「真の生活」をもっぱら実践しながら、教壇に立ち、各地を巡り、その普及に努めたのである。

先に『茶味』を緒した後はほとんど茶の湯に関する著述を断っていたと述べたが、いっさい文章力を書かなかったといえばそうではなく、折にふれて感じたこと思ったことなどを書き留めており、それらは『奥田正造全集』全三巻にまとめられている。そのなかに収められた「茶道案」と題する小文(後に『奥田正造選集』に再録)の冒頭に、「茶を知りたい人、習いたい 人」として次の文章がある。

知りたい人は文献の研究を志すがよい、只知つた丈けで楽しめる人の境界は垣の外からのぞく庭の景色で簡易である。併し自分の生活そのものでないから真味の喫著は疑はしい。(中略)
習ひたい人、即ち楽しみたい人、換言してその境に入りその味を喫したい人、即ち自分の日常生活化したい人、それにはよむだけでは行けない、教を受ける態度がいる。
教を受けるとなると先生の教を無条件で甘受する要がある。

信者道元功徳之母 以信為能入

が必要条件で暫く一道を歩むことが肝要である。(中略)
この文章を読むと、私自身はいうまでもなく、茶の湯を学ぶ多くの人は彼のいう「知りたい人」であり「垣の外からのぞ」いているのに過ぎないのではないかとつくづく思い知らせる。と同時に茶の湯を学びたいと志す若者たちを含めて、「無条件で教を甘受」できる人がいかほどいるのだろうか、と思わざるをえない。すなわち若者たちが「知りたい人」ではなく「
習いたい人」として「無条件で教を甘受」する姿勢を示し、また茶の湯を教える人たちが奥田正造のいう「真の生活」を「日常生活化」して、はじめて茶の湯における世代間の行き違いが解消できるのではなかろうか。
奥田正造がみずからの実践を通して示した『茶味』は発行以来八十余年の歳月を経過したとはいえ、その内容はけっして古びて苔むしたものではない。いま茶の湯にたずさわっている人たちはもちろん、これから茶の湯を学びたいと考えている人たちはもとより、何よりも日本文化とは何かを知りたいと考えている若者たちにとってもきわめて有意義な書物である。

つづく  

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2013年01月22日

茶の湯の極意は



和菓子があると抹茶がほしくなる。

誰にも習わずに抹茶を始めてしまった。

あぁ~うまい。

それでいい。



茶の湯の極意は

・弟子に「茶の湯の神髄とは何ですか」と問われた時の問答(以下の答えを『利休七則』という)。「茶は服の良き様に点(た)て、炭は湯の沸く様に置き、冬は暖かに夏は涼しく、花は野の花の様に生け、刻限は早めに、降らずとも雨の用意、相客に心せよ」「師匠様、それくらいは存じています」「もしそれが十分にできましたら、私はあなたのお弟子になりましょう」。当たり前のことこそが最も難しいという利休。
・秀吉は茶の湯の権威が欲しくて「秘伝の作法」を作り、これを秀吉と利休だけが教える資格を持つとした。利休はこの作法を織田有楽斎に教えた時に、「実はこれよりもっと重要な一番の極意がある」と告げた。「是非教えて下さい」と有楽斎。利休曰く「それは自由と個性なり」。利休は秘伝などと言うもったいぶった作法は全く重要ではないと説いた。

http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/haka-topic21.html





















  

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