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2013年11月10日

伊勢神宮と伊雑宮の真相


お米のことをいろいろ調べていくとこのようなことにも興味がでてきてしまう。

先代旧事本紀大成経
後藤隆 著より抜粋

伊勢神宮と伊雑宮の真相


『旧事本紀』の記録によれば、最初にアマテラス(天照)を祀った宮は伊雑宮である。なぜそこにアマテラスを祀ったのかというと、そこにアマテラスが「天降った」からである。
実は誤解している人が多いのだが、その場所に神が天降ったといっても、それはその場に神が人間のように「居続ける」わけではない。
アマテラスというのは太陽神である。太陽は朝、東から空に昇って夕方になると西に沈む。毎日これを繰り返す。天を「巡る」という性質を持っているのだ。
そして、実はこうした天の動きを地上に反映されるがごとく、太陽の宮も地上を巡りながら祀られるのが、もともとのあるべき姿だったのである。
太古の「アマテラスがの宮」は、日本各地を巡っていた。そしてその「巡る」はずの宮が、現在の伊勢神宮の場所、三重県伊勢市に来たときを最後に動かなくなってしまった。それが真実なのである。
現在、伊勢神宮は二十年に一度「遷宮」と称される引っ越しをしているが、これは太古の「巡る宮の名残なのだ。宮は動かなければいけない。だが、伊勢神宮自体を動かすことはできない。そこで考え出されたのが、わずか数十メートルしか離れていない隣に社殿だけ移して「巡った」ことにしてしまうという策だった。
隣に社殿を移し、そこに二十年経つとまた元の位置であるとなりに新しい社殿を建てて移す。そこでまた二十年経つとまた隣へ。
そんな形ばかりの「巡り」を伊勢神宮は綿々と行い続けてきたというわけだ。本当は、伊勢で留まらず、さらに日本各地を巡らなければならなかったのである。
『日本書紀』にも『旧事本紀』とはニュアンスが異なるが、アマテラスの宮が移動を繰り返していたことは、きちんと記されている。
現在の日本人は、アマテラスの宮は伊勢神宮であり伊勢を動かないものだと思っている。しかし、『旧事本紀』によれば本当は少しずつ動いている。なぜ二十年に一度、わざわざすぐ隣の場所に社殿を造り、「遷宮」という大層な言葉を冠して宮を移動させなければならないのか、申し訳程度にでも伊勢神宮の中で動かさなければならないのか、その理由をきちんと語れる者はいない。なぜならその理由を公けにしてしまうと(もしかしたら本当にその理由を知る者はいないのかもしれないが)アマテラスの宮は伊勢に留まることができなくなってしまう。伊勢神宮にとってみれば、大変な問題なのである。
地球からみた場合、太陽は常に移動している。自転によっても公転によっても、太陽と地球の関係は変わるからだ。この「太陽は常に動く」ということが、太古の学問としてあり、それには合わせるようなかたちで宮は移動していた。それが本当のところだったのだろう。

伊勢神宮に行かなければアマテラスは存在しないということではない。
そこは天を巡るアマテラス(太陽)の神気が一時期強く流れた場所に過ぎない。
なぜならアマテラスは太陽であり、太陽はあまねく照らすという神徳が根本にあるからである。「あまねく照らす」というのは「偏らない」という意味である。神名の「アマテラス」は「天照」と書くが、本当は「アマテラス」には「あまねくてらす」という意味がふくまれているのだ。
偏らないというのは、こっちが好きだからこっちを照らしましょう、こっちは嫌いだからこっちを照らすのをやめましょう、ということではない。善人も悪人も良いところも悪い所も、好き嫌いなくみんな平等に照らすという意味だ。太陽は球体であり、全方向に光を同じように発している。
アマテラスを祀るということは、ここしかない「神」を祀るのではなく、偏らずに照らす、太陽系すべてを照らしていく神の軌跡を祀っているということなのである。
したがってアマテラスを祀る場所は地球上どこでなければならないというきまりすらない。なぜなら陽の当たらないところはないからだ。
アマテラスが照らす光によって、人間はこの世で生活することができる。
光によって我々は、どこに何があるのか、何がどういうかたちになっているのかを知る。それがわかれば掃除もできるし、片づけもできる。これは物理的な意味だけではなく、精神的な整理整頓、つまり「悟り」にも通じる。
アマテラスから与えられる光によって、人は迷わずに生きることができる。
それと同時に、すべての生きとし生けるものは、光の恩恵を受けなければ生きていけない。光がなければ植物が死んでしまうことは周知のことだか、植物が存在できない世界は、我々動物もまた存在し得ない。だからすべての中心としてアマテラスを捉えることが古代の学問の中で説かれている。
「旧事本紀」では、こうした説明をもって、アマテラスを祀る意味を説いている。
たがこれでは、アマテラスを祀る場が伊勢でなければならない理由はなくなってしまう。「旧事本紀」は何も伊雑宮のほうが伊勢神宮よりも古くからアマテラスを祀っているから伊雑宮のほうが「上」だと言っているわけではない。
巡るアマテラスの宮の順序として、たまたま伊雑宮のほうが伊勢よりも古かったと記録しているだけなのだ。
だが「旧事本紀」が世に出、本当の意味での「アマテラス」の意味が明らかになってしまえば、伊勢神宮はその権威を失ってしまう。だから難癖をつけて怒り、同じく権威にしがみつく人々を動かし「旧事本紀」を葬ろうとしたのだ。
当時の有識者が「旧事本紀」を読んでアマテラスの真意がわからなかったわけがない。
とんでもない本だと訴えたは、単に伊雑宮云々ということだけではないはずだ。
伊勢神宮のみならず、、権威をよりどころにするすべての人々にとって偏らない、平等を説く「先代旧事本紀大成経七十二巻」は明らかに邪魔だった。
それこそが「旧事本紀」が発禁本になった真実なのだと私は思う。





Posted by HAPPY BIRTH CAFE at 07:09│Comments(0)
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