衣食住遊 イセヒカリ 今日無事生かして頂いてありがとう御座います

2014年12月12日

牛乳なし給食 試行へ 新潟・三条市 牛乳について考える

日本に約5万5千人いる100歳以上で、牛乳を飲んで育った人はほぼゼロ

牛乳なし給食 試行へ 新潟・三条市 和食と食べ合わせ重視 カルシウムは他食材で
http://www.nishinippon.co.jp/feature/life_topics/article/106041

子どもの幸せを願う人達の日々の地道な活動が行政を動かしこのようなニュースになったのだと思う。
いい流れです。




牛乳について考える
http://happybirthcafe.naganoblog.jp/e1373163.html

日本の教育を変えるには料理を変えること
http://kasakoblog.exblog.jp/22422478/

目指すは母子手帳の改正です。


  

Posted by HAPPY BIRTH CAFE at 11:04Comments(0)歴史教育自然回帰

2014年11月20日

ヘナサロンイシスと佐藤初女さん

先日、家族三人一緒に髪をカットしてきた。


お店でカットは初めて
綺麗なお姉さんが大好きなのでとても嬉しそうだ。


場所は長野市にあるヘナサロンイシス
http://hena-isis.com/hena.html

ここのオーナーの美穂さんは基本は自然派でありながら美味しい肉とワインも大好き
という方でただ綺麗だけではなくちょっぴり毒もあったりするところがとても魅力的。

お店に置いてある本は変わっていて食や健康に関するものがたくさんおいてあるのも面白い。
新谷弘実さんの「病気にならない生き方」をはじめ真弓定夫先生の漫画「牛乳は猛毒」「白砂糖は魔薬!?」とかがふつうにおいてある。

今回はイシスに置いてある本の中から手にとって読んだのは佐藤初女さんの本。

この本を読んでこれからは三角おにぎりではなく丸いおむすびにしようと思った。


佐藤初女さんインタビュー
https://www.ntt-f.co.jp/fusion/no27/tokusyu/tokusyu.htm

佐藤初女さん その2 おむすびのつくり方
http://s.ameblo.jp/jikyuujisoku/entry-10075428984.html


おまけ

自分は父親の薄毛の遺伝に恐怖し、中学生のとき廊下でネズミに合成シャンプーと石鹸シャンプー塗ったまま放置した実験をみてからは髪には気を使ってきた。

今の髪の手入れはというと洗髪はシャボン玉石鹸の浴用か粗塩を使い、リンスは薬局にあるクエン酸、椿油や白ごま油。整髪料はココナッツオイル。白髪染めはヘナという感じで市販のシャンプーやリンスは使っていない。

遺伝に負けずまだ髪は残っている。


ハゲないために 不洗髪生活のすすめ 
THINKER・鶴田さん
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=292144  

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2014年11月12日

上高田保育園の運動会



10月に子どもの運動会に行ってきた。
場所は長野市にある上高田保育園。

子どもの運動に関していえば家では「ハラをなくした日本人」を意識してバランスや体幹や丹田を意識できるような遊びをよく一緒にする。
頭よりハラを鍛える。
自分のハラはヘナヘナなのでせめて子どものハラはしっかりさせようと思った。
http://happybirthcafe.naganoblog.jp/e1328288.html
ロディ、ビリボー、スラックライン、ストライダー、スケートボード、スノーボード山歩きなど。








またスポーツよりも武道を意識させたくてよくこんな動画も見せたり。

棒の重みを生かしてハラから動かす
17分20秒からスポーツと武道の違い
22分20秒から木刀を使う
Koichi Tohei : Strength vs Ki - Aikido
http://youtu.be/MuZdxhA_h4Y
バットもテニスラケットもゴルフクラブもギターも包丁も鍬も筆も花もみんな同じ。
でんでん太鼓みたいに軸を中心に動かす
軸がハラ。
宇宙も細胞原子電子も同じ相似象フラクタルカタカムナ。回転。螺旋。DNA。

こんな方もいました。
初見良昭先生
http://youtu.be/fSwSGJw4eXg


でも一番意識してきたことは首がすわったころから子どもをだく時は脇の下に手を入れて抱き上げることをしないで丹田の位置をもつことを常に意識してきた。
これができるのは1歳半ぐらいまで。そのあとは重くなったり動きが激しくなってきてなかなか大変になってくる。
基本的な持ち方は自分の丹田とこどもの丹田の位置を重ねて両手でしっかりおさえてそこを起点に動き回る。
そう。縦横に回転するでんでん太鼓のように。ぎんがのように。


あとでどうなるかはわからないが、きっと「三つ子の魂」と同様に小さい時に無意識に身につけるハラの身体意識はあらゆることに役に立つはずだ。



上高田保育園は嫁がいろいろ調べて探してきた保育園。

自然育児っぽくなんとなくシュタイナーとかサドベリースクールとかそんな系な感じ。

入園希望のタイミングがよかったらしくなかなか入れないとのことだが運よく今年から入園することができた。


この保育園は自然な食と遊びとをとても大切にしている。
園で使われる米と味噌、醤油は自分たちで作っている。
庭には大きな山があっていろいろな木がたくさんあって、一般的な保育園の庭とかなり違う。




二歳の子どもはこんな感じ
http://youtu.be/-mIpL13I1fc


上高田保育園 10月の園だより抜粋

上高田の運動会にのぞみ、はじめて参加されるか方もおりますので、説明します。私たちは、リズムあそびを毎日おこなっていますが、それは、単に、からだを頑健につくるという目的のみではなく、脳の発達のため、知的発達のために大変重要なものとして位置づけています。
それは、運動神経は感覚神経とともに脳中枢の発達を促すことだと考えています。その脳中枢は、6才までにおとなの90%に達するといいます。
0才児の赤ちゃん体操という種目があります。
特に、乳児、、0才から2才までに神経系の発達の可塑性がもっとも高い時期です。この体操で、手指のひらきのおそいこどもは、肩に緊張が強いので、うつぶせにさせたときに、湯上げタオルを三枚おりにして、ぐるぐるまいて細長い枕ようなものをつくり、その上にうつぶせにすると肩が楽になり、手指がひらきやすくなります。そうして、前におもちゃを見せると、こどもは、探求本能で手指を開いて取ろうとする。こうした自らの意欲で指をひらかせる努力をすると言語のおくれもださずにすみます。腹ばいの姿勢は、生後3ヶ月ころになると首がすわってくるのが普通です。その頃から腹ばいにさせて、腕でからだを支えて首をあげる努力をさせる。疲れてきたら頭を床につけてむずがるからそのときはあおむけにしてあげる。こうして、腕の力、首の力を強める。また、両手で足首をもたせ、うつぶせのからだをそらせると、首もあがり、大腿部の筋力ものびる。
これが「かめ」の運動で、との年齢にも必要な基本的運動です。
一才児の障害物でも「ハイハイ坂」を使って、手指、足指を使わなければ前進できない斜面などをとりいれて保育していきますと、発達をうながすのです。
今年は、山の斜面にビニール・シートをひいて、こどもたちがよく、山登りしてすべっておりてくることを繰り返していました。トラック250台分の土を運んで、高さ5メートルの山をつくった理由のひとつです。はしごわたりも腕の力も強まり、からだを床から離し、手とひざ、足指だけを床につけて、四足ハイハイをし、その後、腰とひざを上げて両手、両足指でわたっていきます。けりの強さをつけるためです。

ー中略ー

最後に、これらのリズム遊びについて指導の特質を述べておきます。
1.靴、靴下を用いず、すあしでおこなう。それは、足の親指のけりを大切にする。直接に床なり、土なりに足指をふれさすことが必要なので、 室内、室外ともリズムあそびをするときは、はだしにします。
2.模倣期を利用して自発的に行わせる。乳幼児期は瞬間的に模倣する力が強く、しかも自発的に模倣する。この力を利用して、からだの各部分を動かすことに習熟させます。したがって大きい子どもたち、年齢のちがう子どもたちといっしょに、大きい子どもから順にやります。休息もできて一石二鳥です。
3.ピアノ曲に合わせてリズミカルに行うものが多い。音楽を耳で聞き、そのリズムに合わせてからだを動かす。というリトミックの理を応用するのが大部分である。昔も、なわとびやまりつきもうたいながら遊びました。この方が楽しく飽きないのです。レコード、CDに頼ると、決まった順番、きまった長さになってしまい、こどもたちも自分の耳で聞き、頭で判断するのではなく、記憶による機械的運動になってしまうと効果は半減する。
4.指示、号令、命令を排して、保育者も子どもたちと同じように並び、いっしょに、全力投球しておこなうことである。あくまでも子どもたちの自発性、やる気で運動させることである。
5.教具は、なるべく自然なものを利用し、できる限り、こどもたちのてづのものを使用させる。
6.走る曲は、年齢によって早いスピードが必要である。
7.毎日一定時間行う。脳の発達には午前と午後の2回必要である。午後はお昼寝以降が望ましい
8.服装は、冬も半袖、半ズボンが好ましい。腕や脚を屈伸させるのに、長そで、長スボンは邪魔をするからである。
9.子どものからだの自然をよく観察し、決して無理をせずおこなうことである。たとえば、首も座らない子どもを立たせることができないように土踏まずの形成の遅れている子どもを高いところから飛び降りさせるのは危険であるし、こどもはしたがらない。一才児は、段差のあるところは必ず後ろ向きになって、足先をさきに地や床につけてからおりる。一才児の障害物競走をみればよくわかる。
こどもは、からだが無理なことは自分でわかり、やりたがらないのがふつうである。したがって無理をしない。しかし、同じ年齢の子どもの大半ができる種目であるのにできない、やりたがらないのは、発達の遅れの原因をさぐり、偏食、生活のリズムその他を検討する。
また、手足を使う運動を重視し、車にのらず歩かせるなど意欲的にとりくむことである。
以上、運動会の種目の意味とポイントを説明しました。また、リズムあそびの指導の特質を述べました。運動会では、子どもの主体性を大事に行うので、種目の説明はおこなわないのです。
こどもたちは、自発的、能動的に取り組み、おとなも子どもと同じように全力で走り、リズムをします。ピアノの音をよく聞いて動いていきます。

以上抜粋

上高田保育園のパンフレットより
http://happybirthcafe.naganoblog.jp/e1472032.html

運動会のお昼は元オーガニックカフェで働いていまお母さんの手作りのお弁当。
大根葉っぱのおむすび、高野豆腐の唐揚げ、切り干し大根、松田マヨネーズを使ったゴボウのサラダ、卵と豆腐の出汁巻き卵、三年番茶。

安心して食べられるし、とても美味しかった。
今はフェアトレードの雑貨屋さんをしている。
http://www.mahoudo.com

楽しくて美味しかった運動会。
こんな素晴らしい保育園や幼稚園をもっともっと作って欲しい。

長野県には山も木もお金もいっぱいあるんだから。

長野市では新市役所第一庁舎・長野市芸術館の建設の事業費は159億8千万円を見込んでいる。
浅川ダムの総事業費は380億円


国産材を使った上高田保育園の建設費はいくらか調べてみたけど。
いくらかかるんだろう?
http://sitesakaguchi.jp/pophouse/modules/news/index.php?page=article&storyid=20



おまけ

運動を支える丈夫なからだをつくるのは食
これも大事
この動画は長いが給食や母子手帳がどのようにして作られたかよくわかる。
子どもを塾やサッカーをさせるよりも親がこうゆう現代の状況を知ることが大切だ。
すべてのお母さんにぜひ見てほしい。

台所が変われば世界は変わる。

真弓定夫先生「白衣を着ない・薬を出さない小児科医」インタビュー2010年12月21日
http://youtu.be/NMcwUvUb6nQ

  

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2014年04月18日

改正少年法成立 刑の上限引き上げよりも学校給食を変えよう!

気になったニュースとそれに対しての解決方法。
無関心ではいられません。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140411/k10013661431000.html
改正少年法が成立 刑の上限引き上げ
4月11日 10時39分

 「こどもが悪いのではない」。こども達が見事に変わっていく姿を目の当たりにして、大塚氏は確信している。非行やイジメ、キレる、無気力のこども達は、急にその状態になるのではない。家庭で、学校で、大人がそのように育ててしまっているのだ。

ごはんが子ども達を変えた!
──熱血先生・大塚貢の挑戦──
http://members3.jcom.home.ne.jp/mulukhiya/syokuiku/kiji/mainichi-hokkaido.html


「子どもたちを救った奇跡の食育物語」 『給食で死ぬ!!』 大塚貢先生
http://www.youtube.com/watch?v=_wGRrL_dFh4&feature=youtube_gdata_player

ダイジェスト
http://www.youtube.com/watch?v=1KYh3z7gYuQ&feature=youtube_gdata_player






  

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2013年06月19日

究極のおもてなし



みなさんはおもてなしという言葉にどんな印象をもちますか?

「おもてなし」という言葉を聞くとなんだか商売トークのように思ってしまいます。

けっきょくは売りたいんでしょって。

おもてなしという言葉を使った時点でおもてなしではなくなってしまうような気がします。



では、ほんとうのおもてなしとはどういうものか?


そんなことをよく考えていました。


たどり着いた答えは。


おもてなしとは母性なり。


全部無料で提供してくれていた。

お母さんはお金もお礼も求めないので、それがおもてなしとはなかなか気がつかなかった。

カフェという茶道を遊びながら楽しみながらやってきて見つけた母性というおもてなし


とくにお母さんには生んでもらってからもてなされっぱなしだった。

妊娠から始まり、出産、おっぱい、うんち、おしっこ、洗濯、掃除、着せ替え、ごはん。

それを無料で毎日、24時間いつでも対応してくれた。

赤ちゃんの時の記憶がないのでなかなか気がつかないが、人はみんなそうやってお母さん守られて生かしてもらった。


そのお母さんのおもてなしのなかでも究極のおもてなしは出産。

長男の出産に立ち合った時に思った。

自分もこうやって生んでもらったんだ。

これは究極のおもてなしだなって。

でもお母さんにはおもてなしをしているという意識はない。

だからおもてなしだと思う。


誕生日はおもてなし
http://chel.naganoblog.jp/c50837.html

















  


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2013年06月10日

スラックラインで丹田教育




白馬岩岳スキー場の山頂に設置されていたスラックライン。

丹田を鍛えるにはこれがいい。たぶん一番いいと思う

スラックラインとは
http://slackline.jp/2010/04/08191200/


仕事が終わったあとスノーボード上達のためにスラックラインに乗って練習した。

はじめてやったときは笑えるくらいにできなかった。

どんなに筋力や体力があっても上手く乗れるとはかぎらない。

重要なのは身体の中心、体幹、重心…丹田!

そこを地球の中心をしっかりと結ぶイメージ。

丹田、丹田、丹田……。

まぁ、とにかく乗るのは難しいけれども簡単に遊べてなにより楽しい。

もっと小さな頃からこれで遊んでいたら、いろんなことに応用ができていたと思うし、スノーボードにかぎらずなんでももっと上達していたかもしれない。

そんなことで自分の為というよりは子供ができたらこれで遊ばせようとと思ってスラックラインを購入した。


自分たちは頭の教育が全盛期だったけど次世代の子どもと一緒に丹田を鍛えて強い腹をつくろうと思う。

日本人は丹田を意識しなくなってから自然から遠ざかってしまった。

地球の中心と身体の中心の丹田をしっかりと結べば自然とひとつになれる。


もっとわかりやすく説明してあります↓

スラックラインと子供達
http://slackline.jp/2012/03/22231717/


  


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2013年06月01日

自然の中で楽しむ


よちよち歩きはじめた息子

4月にめでたく一歳の誕生日を迎え、自分も親になって一年がたちました。
そして日々考えていることは、子供に何を伝えていくか?
そのために自分たちはどのように生きていくか?
難しい時代に生きていますが、親も子どもも一緒に自然を楽しみ、そこから何かを学ぶということが大切だなぁと思う今日この頃です。

In Deepより抜粋しました
http://oka-jp.seesaa.net/s/article/364666047.html
マヤ族の子供たちは12歳から13歳になるとおとなの仲間入りをしました。

その前にいろいろなこと、基本的な生活に必要なこと、たとえば家を作る、作物、特に主食のトウモロコシの栽培方法、獲物の取り方、鹿、イノシシ、アルマジロやイグアナが蛋白源となりました。ですからこれらの動物の捕獲方法などを親や目上の人たちに何回もおしえてもらいました。

それから、感謝すること、特に太陽や風や雨などに毎日感謝をすることなど生活の中で大切にしなければいけないことなどを習います。


マヤ族がどうのこうのではなく、本来は人間が生きていくにはこのくらいの教育で十分だったはずです。そして、マヤ文明は少なくとも、明治以降の近代日本の文明よりは長く続いた文明です。


教育のことだけであまり長くなるとアレですが、この教育の問題というものが「まず」あります。


「まず」と書いたのは、たとえば、私はもう大人のわけですが、大人としての私たちは今後どう生きていくかということがあります。







  

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2013年02月08日

東城百合子さんの『自然に学ぶ食卓からの子育て』


家のコタツの上でみつけた本


手作りを通して自然の恵みに感謝するその心こそ日々の生活を通して親から子へ伝え残していくものです。
本文より



世の中の問題の根は何なのかと考えたとき教育ではないかと思う。

では何を教育の中心にすべきかと考えると『食』になる。

人は食べなければ生きていけないから。

子どもには学習塾よりも台所や自然の中でいのちを学んでもらいたい


台所から世界が変わります。




『自然に学ぶ食卓からの子育て』

丈夫で心豊かな子を育てる食事としつけ

自然食・自然療法研究家 東城百合子著


はじめに

親は子どもの幸せを願い、頭のいい子、素直な子、社会に役立つ子を、と夢みながら子育てをします。しかし、必ずしも親の願いのようにはなりません。最近は、自殺やいじめ、ノイローゼなどの心の不健康と共に、体の不健康のひずみも大きくなってきました。そして健康法はブームです。
世をあげて健康を願い次々と出ては消え、人々は世に遅れまいと忙しく動き回るまわりますが、病人は減ることがなく増える一方です。気にかかることは、経済成長と共に、ガンをはじめとして慢性化した病人が多くなっていることです。ここにも心抜きと共に、手抜きした生活の根があります。食生活においても、手抜きした分だけ心が抜けてしまうそのひずみが、子どもたちに現れてきていることは否めません。
“ゆりかごを動かす手は世界を動かす”という諺があります。か細く弱くても、女の手はゆりかごを動かし、暖かい心を伝え、やがて次の世を動かす人材を育てる大いなる手なのです。
また、母は大地だといいます。捨て場に困るものを大地は汚れもあくたもバイ菌もすべてだまって包みこみ、それを浄化して見事な土の力としてしまいます。植物も、このしっかりした大地があって育ちます。母は大地だというのです。
暖かいほほえみ、やさしい言葉、湯気の立つ食卓、そして「行ってらっしゃい」「おかえりなさい」の笑顔があるなら、子は決して曲がらず立派に育つ、と大地は語ります。
何があってもいい。どっしりした大地があるなら大丈夫。安らぎと憩いのあるところから、家族は生き生きと働くエネルギーを養い、子は勇んで勉強ができます。愛はすべてを包み、希望を生み出す母胎だと、大地は教えてくれているのです。
世の中に子どもを愛していない親はいないはずです。ところが、現実は子どもの姿を見るとイライラし、怒ってばかり。子どもの心は冷たく離れていくばかり…。どうしてこの子は親の願い通りにならないのか。と思います。が、子は親の願いの如くではなく、親の「心」の如く育つのです。子どもの姿は親自身のイライラした心の姿なのです。親の心に安らぎさえあれば、子どもは素直に、前向に育っていってくれるでしょう。
現代人は心の安らぎを失いつつあります。それはなぜでしょう。早く、便利に、合理的に…を追求していった結果、人は手を抜き、楽をすることが幸せだと思いこんできました。ところが、ここに思わぬ落とし穴がありました。手を抜くことは心を抜くことでもあったのです。手抜きの食卓からは、子どもに心(愛)を伝えることができないのです。そしてその結果が非行や家庭内暴力、校内暴力へともつながっていきます。
現代人のこの失われてしまった「心の安らぎ」を一体どうやったら取り戻せるでしょうか?
ここに一つだけわかっている道があります。それは毎日の食卓を真心をこめて手作りすることです。最初はめんどうくさいとおもっても、家族が健康でみんなに喜ばれているうちに、まず作る人自身の中に安らぎが生まれます。そしてやがて、子どもたちの心にも安らぎが伝わっていくのです。なぜなら、手をかけるとは愛をかけることに他ならないからです。
この本では、まず親の心が子どもの姿にどのように映し出されているかを実例を通して紹介しながら、こころを養う育児とは何か、を私自身の育児体験も交えて書いてみました。
また後半では、心と食べ物がいかに密接に関わっているか、心豊かな子はどのような食事から育つのか、をテーマにしてみました。
悪化する環境の中での食生活、特に食品添加物の害に触れながら、いかに食べ物のいのちを大切に生きたらよいか、みなさんと共に考えてみたいと思います。
この本がこころと体の健康を願う多くの方々に少しでもお役にたてば幸です

著者



http://www.amazon.co.jp/gp/aw/d/4262128083/ref=redir_mdp_mobile


  

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2010年05月14日

世界最大の宗教 お金とテレビ

宗教とテレビについて考える

本の紹介『偽情報退散!マスコミとお金は人の幸せをこうして食べている』 THINKER著より抜粋です


人は大きな可能性を持ってこの世にうまれてくる。赤ちゃんや小さな子供たちを見ていると、この子の人生にはどんな未来が広がっているのだろうと想像がかきたてられる。しかし一部の人を除き、多くの人は、年とともにその可能性がどんどん狭くなっていくように見受けられる。その原因には、親の育て方や画一化した学校教育、競争社会など様々なものがあげられるが、ここではその中で、テレビと宗教が与える影響を考えてみたい。テレビと宗教にどのような共通点があるのか。一見、そこには何の共通性もないが、歴史を振り返ると両者は生まれた時代が違うだけの双子であることがわかる。まだテレビがない時代、国家が人々をまとめるために使っていたものの一つが宗教である。古代の神殿は、人々から穀物と貴金属を集めるための場所だった。また、壮大な神殿や教会や、寺院の建設のために国民が労働に駆り出され、信仰は半ば強制された。
 
古代エジプトの神殿や中世ヨーロッパの教会、また奈良時代の大仏殿では、人々が神様や様々な形の偶像に祈りと寄付を捧げることで、国民は同じ精神性を共有していた。。時が変わり、今ではどうだろう。同じテレビ番組を見て同じ価値観を共有することで、人々の間に同意と共感がもたらされている。そして、我々にはテレビがニュースや娯楽を提供してくれる側面はよく見えるが、テレビの果たすもうひとつの役割はあまり見えてこない。それは人々の注意や関心を引きつけ、エネルギーを吸い取る働きである。ここで言うエネルギーとは、物質(肉体)的なエネルギーと精神的なエネルギーの両方を言う。
 
宗教を、例にとるとわかりやすい。宗教では、人々の物質(肉体)的エネルギーがお金や物品の寄付や献身(労働)という形で集められ、精神的なエネルギーは信仰心という形で集められる。テレビにおいては、少し複雑になる。物質的なエネルギーは、テレビに出演するお笑い芸人、アイドル、スポーツ選手、セレブなど様々な種類の芸能人への報酬を視聴者が直接または間接的に負担することで回収される。国民は、働いて得たお金でお気に入りのスポーツを観戦したり、アイドルのコンサートに行ったり、また、特別ひいきの芸能人がいない国民でも、彼らが宣伝する様々な商品を購入するという形で芸能界やテレビ産業に金銭的な貢献をしている。

 また、精神的なエネルギーは、アイドルや役者への羨望や崇拝、お笑い芸人に対する笑や共感、またはスポーツ選手に対する熱狂という形で集められるこれらは、昔の宗教に対する信仰心が現代に形を変えた同一のものと見ることができる。テレビを見ることが、どうして精神的なエネルギーを吸い取られていることになるのか、ピンと来ない人もいるかもしれない。確かに、視聴者側がテレビ観賞から元気をもらうこともあるだろう。
 
 人生は楽しむべきものであり、これらの娯楽のどこにも間違ったことはない。しかし、そこには明らかな代償がある。それは、崇拝や熱狂や関心の対象が自分以外のものや人に向けられ、「自分」という存在が見過ごされてしまうことである。また、宗教を例にとるとわかりやすい。きらびやかな教会や寺院の中、金ぴかの仏像や立派な像を前にして、神の壮大さや心理の素晴らしさが説かれていた昔、人々は何を感じていたか。それは謙虚さと言えば聞こえはよいが、人びとはただ圧倒され、無力感や自分の存在の小ささを実感して、宗教を通じて国家への従順さと信仰心が養われていた。壮大な宗教施設と同じように、莫大な資本と才能がふんだんに注ぎ込まれた芸能界やプロスポーツ界の人々のが登場するテレビ画面を前にしても、同じことが起きる。有名人やカリスマを見習って自分自身も何かにチャレンジしようとする人よりも、彼らを従順に崇拝する人々のの方が圧倒的に多くなってしまうのだ。

 自分の精神レベルを上げることよりも、崇拝する対象に人生を捧げようという姿勢である。その結果として一般市民の多くが、一消費者や観客として人生を終えてしまう。そして、さらにもうひとつの代償がある。それは社会全体像の損失である。今の世界の現状は、戦争も飢餓も環境問題も格差社会のどれも解決されないままである。その状態を改善するには、おおくの人間の協力が必要であり、成熟した大人の大半が娯楽を最優先するような社会は、健全なものには見えない。人々がテレビの中の対象物に向ける関心や情熱が自分自身や社会の改善のために向けられたとしたら、どれほど物事が前進するだろうか。少し想像してみてほしい。

 以上、テレビと宗教の及ぼす影響の共通性をあげたが、現代の多くの宗教は、昔の宗祖の教えから大きく逸脱したものになってしまっている。そのことを追加して述べてみたい。

 現代でも何らかの宗教を信仰する人にとって、宗教とは神聖なもの、または人生の指針となるものである。一方、宗教をまったく信じない人にとっての宗教とは自分には縁のないもの、または年中行事や冠婚葬祭のときにだけ関わるもの、もしくは、弱者が頼りにしたり、何か怪しい洗脳を受けたりするものとしてのイメージが強いだろう。おそらく、大半の日本人は、特に熱心な宗教を持たない後者の部類に入ると思う。しかし、このような宗教のイメージに反して、世界の伝統的宗教では本来、何かに追従したり、何かを崇拝したりすることはおしえてはいない。

 仏教において、神は人間と同じ生命の一種であり、崇拝の対象ではなかった。神だけではなく何かを信仰すること自体、勧められていない。また、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教では教義上、偶像崇拝は厳しく禁じられていた。神の具体的なイメージが与えられなかったため、これら一神教の信徒は多神教の信徒に比べ、人生の諸問題に対する自発的な判断力や分析力、解決力などをみがかれたとされる。

 また神道では、ご神体である神鏡に映しだされる自分自身に神の霊性を見出すことが本来の教えだった。これらの教えは全て時代が下がるとともに、いつもまにか人間の勝ってな都合で、十字架や仏像といった陳腐な偶像崇拝に変えられ、人々は原始的な「崇拝や信仰」という追従的な精神性に陥ることになった。そして、本来の教えである自分自身を客観的に見つめることや物事の本質を見極める精神性から遠ざかってしまったのだ。

 逸脱した宗教のバリエーションは時代とともにさらに広がり、崇拝や信仰は今や宗教以外の社会の様々な分野で蔓延している。大学や学界など、科学的事実を探求すべき学問の世界にも古臭い権威信仰が存在し、
企業や官公庁などの組織やありとあらゆる業界に極度の上位者崇拝の習慣があることは、誰もが知ることだろう。ここ最近では、格差社会の勝ち組になるために提供されるアメリカ製のネットワークビジネスや成功哲学信奉者などに現代版の上位者崇拝や信仰精神を見ることもできる。
 対象が何であれ、崇拝や信仰が最終的に行き着く先はお金や権利である。大衆は心の安定や希望を得るために常に何かを信奉し、お金を支払うことでその権威を支えてきた。しかし、神は人間のお金を必要とせず、自分を見つめることにもお金はかからない。お金を必要としているのは、上位の人間である。その最上位にはどんな人々がいるか、賢明な読者にはこれ以上の説明はいらないだろう。「神」「真理」「悟り」「平和」「成功」「安心」というもっともらしい大義名分は、大衆を釣るためのエサにすぎない。これらの偶像と決別し、何ものも権威としない個人が増えることが、お金を超えた健全な社会の基盤を作ると考えるがどうだろうか。

 それにはまず、権威を疑う前に、何らかの権威をよりどころにしてきた自分自身と向き合うことが必要かもしれない。

 この世界を支配している宗教

それは、お金とマスコミである!私もあなたもその信者だ

こんなことをいきなり言われたらビックリされるかもしれない。しかし、最後まで読んでくれた読者には、納得のいく話だろう。

 宗教とは信者にとって何が善で何が悪か、また、どのように生きるべきかを決めるものである。そういった意味で、自分が何を信じているか、何の信者なのかは、自分の生き様、毎日の生活を見ればよくわかる。いかにお金に、左右されて仕事を選び、人付き合いを選び、マスコミの情報に左右され、自分の行動を決めていることか。お金とマスコミがいかに周りの人の価値観や生き様を決定しているか。その影響の与え方はそんじょそこらの宗教の比ではない。その影響力の範囲は、人種、性別、国籍、年齢、職業の全てを超えている。ここまで人を動かすものを宗教と呼ばずして、一体何と呼んだら良いのか、他に言葉が見当たらない。だから、お金とマスコミこそは、世界最大の唯一ホンモノの宗教であると言いたい。この宗教において、神様は、信者には姿の見えない「国際銀行家」である。穀物マネーの時代から神殿が銀行の役割をしてきたが、今や銀行が神殿となった。この神殿は大小含め、世界各地にあり、彼らの印を押した紙が世界中でばら撒かれている。この紙には、神が保証する絶対的な価値があり、これをたくさん持っている信者が偉いとされる。その普及活動は世界各地のテレビ局から電波を通じて行われる。

 各家庭にはテレビという祭壇があり、熱心な信者の家にはこんな祭壇が何台もある。信者はお祈りさながらに、ありがたくアナウンサーという牧師(僧侶)から毎日のニュースを聞き、信者の間で同じ価値観を共有し、そこに喜びとやすらぎや共感を覚える。その価値観は、その宗教の信仰にすぎないのだが「常識」と呼ばれ、唯一絶対の真理とされる。それを信仰しない者は、異端者や変わり者とされてしまう。そして、この宗教の怖いところは何かと言えば、自分が信者であるという自覚がまったくないことだ。むしろ、自分こそは正常な社会人や知識人、常識人であると思い込まされているのである。この宗教から人々が自由になる日は来るのだろうか。私は、その日は必ず来ると思う。

 お金とマスコミは、今の社会で絶対に必要とと思われている存在だが、じつはそのどちらも我々の信用から成り立っている。我々が信用しなくなれば、そのどちらも消え去ってしまう運命にある。そこでひとつ想像してみたい。「お金とマスコミがない世界」である。むろん、時代に逆行することは不可能だろうが、我々が絶対に必要だと思い込んでいるもの、その固定観念を一度崩して世界を見渡してみると、何か新しい発見があるかもしれない。

 我々は、人間が進めてきた文明や進歩を誇らしげに思ってきたし、便利さの飽くなき追求は止まらない。しかし、光には影がつきまとうものであることを、どこかで忘れてはいないだろうか。例えば携帯電話を持つようになったことで、いつでもコンタクトをとることができるようになった反面、仕事量が圧倒的に増えた。そんな例を出せばきりがない。

 また、お金が出現したことによって、人と人のつながりは、気薄なものになっと言ってもいいだろう。人と人のやり取りを何でもお金で済ませてしまう現代の都会と自分で作った野菜を分かち合う昔ながらの習慣が残る田舎を比べてみれば一目瞭然である。

 そもそも、お金もマスコミもなかったのだ。お金が突然なくなれば当然、社会はしばらくの間混乱するだろうが、やがてそれはそれで何とか成り立つはずである。

 アメリカ合衆国の創成期には約80年間、中央銀行のない時代(州銀行は存在)が続いたが、それでも国家は苦難をくぐりぬけ発達した。またマスコミがなくなれば、人々はもっと自主的に情報を伝達し合うよになるだろう。ますのように単に不安を煽るようなニュースばかりでなく、生活に本当に有益な情報が人々の間でやりとりされるはずだ。すると、自然に周りの人との関係も深くなり、地域が活性化されるだろう。また、お金がなければ、本当に好きなこと、あるいはやり甲斐のために働く人も確実に増えるにちがいない。こうして想像してみると、やはりお金もマスコミもたいして重要ではなく、それらがなくても社会は十分に成り立つと思えるがみなさんはどう考えるだろうか。

 本書でお伝えしたマスコミとお金の仕組み。国際銀行家による世界の支配構造は、社会をとてもマクロの視点から捉えたものだが、それさえ絶対のものではなく、数ある解釈の中のひとつの視点にすぎない。この見方だけにこだわって、全てにおいて疑心暗鬼になって精神のバランスを崩すようではいけないと思う。一般人の我々にとって大事なことはもっと身近なことである。マクロな視点を持ちながらも、身近な人との付き合いをより大切にしてほしい。そこでこそ、これらの情報や知識が生きてくる。人はどれほど知識や意識のレベルを高めたとしても、所詮だだの人にすぎないのだ。最後まで読んでいただいた皆様には心から感謝したい。

 そして、何よりもあなたがお金とマスコミに惑わされない幸せな人生を送ることを願う。




  


Posted by HAPPY BIRTH CAFE at 19:01Comments(0)教育