衣食住遊 イセヒカリ 今日無事生かして頂いてありがとう御座います

2011年06月25日

幸せと感謝とハッピーレシピ

今、生きてることがすごく恵まれていることでだった!

このことに気づくと幸せになります。

つまり命をもっていることが何より有難いことで幸せだったということです。

そこに生まれるのはすべてへの感謝です。


人間は生きていることが当たり前になると欲が出てきます。


それが不幸の始まりです。


すると、今まであたりまえに思えた事が有り難いことだったと思えるように不幸なことが起こってきます。

逆にあたりまえに思えることを有り難いなぁ。と思って感謝していると、さらに良いことが起こってきます。


たとえば、ご飯を作ってくれた母親に対して「またこんなメシしかねぇんかよ。コンビニで弁当買ってくるから金くれよ」などと不満ばかり言っている場合と「お母さんいつもおいしいご飯を作ってくれてありがとう。お皿は私が洗うからお母さんは少し休んで」と言ってお皿を洗ってお茶を出したりする場合では母親の対応は確実に変わってきます。
文句を言われた場合「自分で作りなさいよ」とか「だったら食べなくていいから」ということになり、感謝されると母親は嬉しくなって「冷凍庫にハーゲンダッツがあるからあとで食べなさい。すぐコーヒー入れるからね」などと喜んでもらおうといろいろしてくれます。

母親に文句をいうか感謝をするかは出来事を当たり前に思ったか有難いと思ったのかの違いです。

自分の出した波動がそのまま返ってきます。

感謝すれば感謝したくなる様な出来事がおこる。

文句を言えばさらに文句を言いたくなる出来事がおこる。

すべては波動で出した波動は必ずまた返ってくるということでいろんな方が言っているし、経験的にもわかります。


この親子関係と人間と神様の関係でも同じです。

現状の中にすでにある有り難いことを見つけて感謝する!

これが幸せになる方法です。

感謝から幸せが生まれます。

なので、ハッピーレシピの最後は感謝にしたわけです。

そしてなさにより、自分も感謝の気持ちを忘れないようにです。


『釈迦の教えは、「感謝」だった』小林正観著
より抜粋

神社仏閣に行って、お願いやお祈りをする。自分の夢や希望を叶えてくださいとお願いをするーーーそういうふうに日本人は教わってきたのですが、宇宙的に言うと、そのお願いをした瞬間、実は神仏を敵に回すことになります。
どうゆうことかというと、その行為は、いま自分が取り囲まれている状況が気に入らないと言いに行ったのと同じなのです。つまり宣戦布告に行ったのです。
例えば、「体のどこそこが悪いので治してください」とお願いに行った。
自分の身体に、悪いところが一、二ヶ所ある。ところが順調に動いている場所が、九九九八ヶ所ある。この九九九八ヶ所に対して、常日頃、一回も手を合わせ、感謝もしていない。「痛いところだけ、なんとか治してください」と言いに行ったということは九九九八ヶ所に対する感謝が欠けているということです。
同じように「収入が少ないので、もっと収入を増やしてください」とお願いしたとする。
神社仏閣に自分の足で行くことができたということは、今日まで食べてこられた、その体を保つことができた、ここまでやって来る交通費も払えた、来るだけの時間的なゆとりも取れたーーーそういうことです。
その意味でいうと、それだけでもすごく恵まれています。ほんとうに恵まれていなければ、神社仏閣に来ることさえできません。経済的にあるいは身体的にそれが許されない人さえいるのです。それなのに、もっと売上をあげてくれとか、利益を確保させてくれというお願いは、いま十分に食べられるようにしていただいているという現実を超えて、「もっともっと、まだまだ」という「驕り」となります。結局、そうしたお願いは、神に対して宣戦布告になっている。
学校教育でそうゆうことをずっと教え込まれてきたのですが、夢や希望にあふれた生活保護というものはよく考えてみると、それ自体が、「あれが足りない、これが足りない」と不足を挙げ連ねること。「まだまだ、もっともっと」と言い続けているということにほかならない。

すでに一度かきましたがくり返します。
「感謝」ということの意味を、広く大きく宇宙的に見つめていくとわかってくるのですが、人間は、何かが思うようになっていないと、思いどうりになっていないことだけを挙げ連ねるものです。仕事も、対人関係も、健康も。しかし多くの場合、不足している以外の九九九九ヶ所はスムーズにいっている。
そのことに対して、一度も、一ヶ所にも手を合わせたことがなく、感謝をしたこともない。
どこか不調だったり、お金がうまく流れていなかったり、集まってこなかったら、「たまには感謝してみたら?」という宇宙からのメッセージととらえたらどうでしょうか。「ああ、そうか。足りないことをもっと寄こせ、もっと寄こせ、ではなく、これまでほんとうにたくさんいただいたことに、感謝が足りなかった」と気がつくかもしれません。
何かが叶ったから、手に入れたいものが手に入ったから感謝するという感謝は実は本当の感謝ではありません。それは感謝ではなく、我欲が満たされたということに過ぎない。
我欲が満たされたら、また次の要求をして、さらにその我欲が満たされたら感謝するーーーこれは、本当の感謝ではないように思います。
「感謝」とは、すでにいただいている九九九九のものに対して気づくこと、手を合わせること。それができるようになると、何かを叶えてくれとか、何かを手に入れたいなどとはかんがえなくなります。
だから、神社仏閣はお願いにいく場所ではなく、お礼にいくところ。
むろん、神社仏閣にお礼に行ってもいいのですが、空に向って、宇宙に向って、感謝をするのであれば、神社仏閣にいく必要はありません。わざわざ行かなくてもいい。家の中に居ても、車の中でも電車の中でも手を合わせて感謝することはできます。


淡々とした何も特別なことがない日々、普通に家族がいて、普通に仕事があって、普通に食事ができて、普通に歩くことができてーーーそれがとんでもなく幸せなんだ…

ということです。


以上抜粋


恵まれていることってなんだろう?





Posted by HAPPY BIRTH CAFE at 18:42│Comments(0)
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