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2011年07月13日

日本の歴史

人祖の時代から初代・天照天皇による「大和」の統一まで

三十八名のお子を産み育てられた初代・伊邪那岐尊・伊邪那美命ですが、その子供たちが子供を産み、どんどん増えていきました。鶴が偶然、羽の間に挟んで運んできた稲の種から米を作る陸稲が広がりました。陸稲の収量は少かったのですが、ある時、水たまりにたわわに茂った稲を見て、水稲のほうが稲の収穫につながることを発見します。
大丹生家も丹生家も、田んぼを耕し水稲を普及しながら、のんびりと平穏に時が流れていきました。本来、大和民族は、あまり時を惜しんで働く民族ではなく、思い思いのペースで、ゆっくり楽しむ民族でしたが、後に権力が導入されると。少しでも働かせようと勤勉を強いられ変化させられたのです。
前にも述べましたが、長男は大丹生家・皇になり、「伊邪那岐」の時代は千五百代も世襲されていきました。時代は何百万年も下って、平和に推移した大丹生家・伊邪那岐皇世襲の時代は終わり、初代・天照天皇の時代に入ります。この時代から「天皇」と呼ぶようになります。
参考までにお伝えしますと、初代・天照天皇は世襲最後の伊邪那岐尊の長男ですが、初代・伊邪那岐尊をお祀りする斎王となるため、名前が変わったのです。
伊勢湾より西側を天照上尊が治め、東側を弟である速素佐之男尊が治めていましたが、鉄、銅の鉱石を産出する美濃の国、赤坂の地にある金産山を巡って険悪な状態になりました。
兄・天照上尊は、三重県鈴鹿・山本椿の庄に住む猿田彦尊に仲介を依頼します。猿田彦尊は何度も速素佐之男尊に足を運ばれ、説得されたのでした。兄、弟のお二人は三重県・多度の天王平で、戦いを避けるために必死に話し合い、その結果、「御難賛助の御誓約」をします。
すなわち、「お互いに無益な争いを止め、助け合っていこう」という誓いです。
この時、弟が精練所で造った「天叢雲剣」を兄に贈り、天照上尊は、この剣を伊勢神宮に奉納しています。
このようにして、争いは回避され、大和の国が統一されました。今よりも長く、三百歳以上生きられたようです。今から約四千二百年前の出来事です。
歴代上初めて内閣が組織され、内閣は初代・天照天皇、速素佐之男尊をはじめ、その他十七名の国務大臣(国常立尊)にて編成されました。千五百年以上、平穏に時が流れていきました。いわゆる縄文の時代です。この時代のものとして、発掘される人骨に損傷がまったくないことが考古学でも報告されており、その平和を物語っております。

余談ですが、現在、天皇家に伝わる「菊の御紋」は十六弁ですが、本来は「聴区」の紋章であって、天皇を中心に十八名の国務大臣を表し十八弁でした。「きく」とは、花の菊ではなく「よく聴く」という意味だったのです。後で述べる天武天皇による歴史の改竄で、初代天照天皇、速素佐之男尊の二名は取り除かれ、現在の十六弁になっているのです。
ところで、現在伊勢神宮の外宮に祀られているのは、初代・天照天皇と速素佐之男尊および時の国務大臣十七名です。「豊受大神」と呼ばれています。





Posted by HAPPY BIRTH CAFE at 18:05│Comments(0)
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