衣食住遊 イセヒカリ 今日無事生かして頂いてありがとう御座います

2010年05月14日

世界最大の宗教 お金とテレビ

宗教とテレビについて考える

本の紹介『偽情報退散!マスコミとお金は人の幸せをこうして食べている』 THINKER著より抜粋です


人は大きな可能性を持ってこの世にうまれてくる。赤ちゃんや小さな子供たちを見ていると、この子の人生にはどんな未来が広がっているのだろうと想像がかきたてられる。しかし一部の人を除き、多くの人は、年とともにその可能性がどんどん狭くなっていくように見受けられる。その原因には、親の育て方や画一化した学校教育、競争社会など様々なものがあげられるが、ここではその中で、テレビと宗教が与える影響を考えてみたい。テレビと宗教にどのような共通点があるのか。一見、そこには何の共通性もないが、歴史を振り返ると両者は生まれた時代が違うだけの双子であることがわかる。まだテレビがない時代、国家が人々をまとめるために使っていたものの一つが宗教である。古代の神殿は、人々から穀物と貴金属を集めるための場所だった。また、壮大な神殿や教会や、寺院の建設のために国民が労働に駆り出され、信仰は半ば強制された。
 
古代エジプトの神殿や中世ヨーロッパの教会、また奈良時代の大仏殿では、人々が神様や様々な形の偶像に祈りと寄付を捧げることで、国民は同じ精神性を共有していた。。時が変わり、今ではどうだろう。同じテレビ番組を見て同じ価値観を共有することで、人々の間に同意と共感がもたらされている。そして、我々にはテレビがニュースや娯楽を提供してくれる側面はよく見えるが、テレビの果たすもうひとつの役割はあまり見えてこない。それは人々の注意や関心を引きつけ、エネルギーを吸い取る働きである。ここで言うエネルギーとは、物質(肉体)的なエネルギーと精神的なエネルギーの両方を言う。
 
宗教を、例にとるとわかりやすい。宗教では、人々の物質(肉体)的エネルギーがお金や物品の寄付や献身(労働)という形で集められ、精神的なエネルギーは信仰心という形で集められる。テレビにおいては、少し複雑になる。物質的なエネルギーは、テレビに出演するお笑い芸人、アイドル、スポーツ選手、セレブなど様々な種類の芸能人への報酬を視聴者が直接または間接的に負担することで回収される。国民は、働いて得たお金でお気に入りのスポーツを観戦したり、アイドルのコンサートに行ったり、また、特別ひいきの芸能人がいない国民でも、彼らが宣伝する様々な商品を購入するという形で芸能界やテレビ産業に金銭的な貢献をしている。

 また、精神的なエネルギーは、アイドルや役者への羨望や崇拝、お笑い芸人に対する笑や共感、またはスポーツ選手に対する熱狂という形で集められるこれらは、昔の宗教に対する信仰心が現代に形を変えた同一のものと見ることができる。テレビを見ることが、どうして精神的なエネルギーを吸い取られていることになるのか、ピンと来ない人もいるかもしれない。確かに、視聴者側がテレビ観賞から元気をもらうこともあるだろう。
 
 人生は楽しむべきものであり、これらの娯楽のどこにも間違ったことはない。しかし、そこには明らかな代償がある。それは、崇拝や熱狂や関心の対象が自分以外のものや人に向けられ、「自分」という存在が見過ごされてしまうことである。また、宗教を例にとるとわかりやすい。きらびやかな教会や寺院の中、金ぴかの仏像や立派な像を前にして、神の壮大さや心理の素晴らしさが説かれていた昔、人々は何を感じていたか。それは謙虚さと言えば聞こえはよいが、人びとはただ圧倒され、無力感や自分の存在の小ささを実感して、宗教を通じて国家への従順さと信仰心が養われていた。壮大な宗教施設と同じように、莫大な資本と才能がふんだんに注ぎ込まれた芸能界やプロスポーツ界の人々のが登場するテレビ画面を前にしても、同じことが起きる。有名人やカリスマを見習って自分自身も何かにチャレンジしようとする人よりも、彼らを従順に崇拝する人々のの方が圧倒的に多くなってしまうのだ。

 自分の精神レベルを上げることよりも、崇拝する対象に人生を捧げようという姿勢である。その結果として一般市民の多くが、一消費者や観客として人生を終えてしまう。そして、さらにもうひとつの代償がある。それは社会全体像の損失である。今の世界の現状は、戦争も飢餓も環境問題も格差社会のどれも解決されないままである。その状態を改善するには、おおくの人間の協力が必要であり、成熟した大人の大半が娯楽を最優先するような社会は、健全なものには見えない。人々がテレビの中の対象物に向ける関心や情熱が自分自身や社会の改善のために向けられたとしたら、どれほど物事が前進するだろうか。少し想像してみてほしい。

 以上、テレビと宗教の及ぼす影響の共通性をあげたが、現代の多くの宗教は、昔の宗祖の教えから大きく逸脱したものになってしまっている。そのことを追加して述べてみたい。

 現代でも何らかの宗教を信仰する人にとって、宗教とは神聖なもの、または人生の指針となるものである。一方、宗教をまったく信じない人にとっての宗教とは自分には縁のないもの、または年中行事や冠婚葬祭のときにだけ関わるもの、もしくは、弱者が頼りにしたり、何か怪しい洗脳を受けたりするものとしてのイメージが強いだろう。おそらく、大半の日本人は、特に熱心な宗教を持たない後者の部類に入ると思う。しかし、このような宗教のイメージに反して、世界の伝統的宗教では本来、何かに追従したり、何かを崇拝したりすることはおしえてはいない。

 仏教において、神は人間と同じ生命の一種であり、崇拝の対象ではなかった。神だけではなく何かを信仰すること自体、勧められていない。また、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教では教義上、偶像崇拝は厳しく禁じられていた。神の具体的なイメージが与えられなかったため、これら一神教の信徒は多神教の信徒に比べ、人生の諸問題に対する自発的な判断力や分析力、解決力などをみがかれたとされる。

 また神道では、ご神体である神鏡に映しだされる自分自身に神の霊性を見出すことが本来の教えだった。これらの教えは全て時代が下がるとともに、いつもまにか人間の勝ってな都合で、十字架や仏像といった陳腐な偶像崇拝に変えられ、人々は原始的な「崇拝や信仰」という追従的な精神性に陥ることになった。そして、本来の教えである自分自身を客観的に見つめることや物事の本質を見極める精神性から遠ざかってしまったのだ。

 逸脱した宗教のバリエーションは時代とともにさらに広がり、崇拝や信仰は今や宗教以外の社会の様々な分野で蔓延している。大学や学界など、科学的事実を探求すべき学問の世界にも古臭い権威信仰が存在し、
企業や官公庁などの組織やありとあらゆる業界に極度の上位者崇拝の習慣があることは、誰もが知ることだろう。ここ最近では、格差社会の勝ち組になるために提供されるアメリカ製のネットワークビジネスや成功哲学信奉者などに現代版の上位者崇拝や信仰精神を見ることもできる。
 対象が何であれ、崇拝や信仰が最終的に行き着く先はお金や権利である。大衆は心の安定や希望を得るために常に何かを信奉し、お金を支払うことでその権威を支えてきた。しかし、神は人間のお金を必要とせず、自分を見つめることにもお金はかからない。お金を必要としているのは、上位の人間である。その最上位にはどんな人々がいるか、賢明な読者にはこれ以上の説明はいらないだろう。「神」「真理」「悟り」「平和」「成功」「安心」というもっともらしい大義名分は、大衆を釣るためのエサにすぎない。これらの偶像と決別し、何ものも権威としない個人が増えることが、お金を超えた健全な社会の基盤を作ると考えるがどうだろうか。

 それにはまず、権威を疑う前に、何らかの権威をよりどころにしてきた自分自身と向き合うことが必要かもしれない。

 この世界を支配している宗教

それは、お金とマスコミである!私もあなたもその信者だ

こんなことをいきなり言われたらビックリされるかもしれない。しかし、最後まで読んでくれた読者には、納得のいく話だろう。

 宗教とは信者にとって何が善で何が悪か、また、どのように生きるべきかを決めるものである。そういった意味で、自分が何を信じているか、何の信者なのかは、自分の生き様、毎日の生活を見ればよくわかる。いかにお金に、左右されて仕事を選び、人付き合いを選び、マスコミの情報に左右され、自分の行動を決めていることか。お金とマスコミがいかに周りの人の価値観や生き様を決定しているか。その影響の与え方はそんじょそこらの宗教の比ではない。その影響力の範囲は、人種、性別、国籍、年齢、職業の全てを超えている。ここまで人を動かすものを宗教と呼ばずして、一体何と呼んだら良いのか、他に言葉が見当たらない。だから、お金とマスコミこそは、世界最大の唯一ホンモノの宗教であると言いたい。この宗教において、神様は、信者には姿の見えない「国際銀行家」である。穀物マネーの時代から神殿が銀行の役割をしてきたが、今や銀行が神殿となった。この神殿は大小含め、世界各地にあり、彼らの印を押した紙が世界中でばら撒かれている。この紙には、神が保証する絶対的な価値があり、これをたくさん持っている信者が偉いとされる。その普及活動は世界各地のテレビ局から電波を通じて行われる。

 各家庭にはテレビという祭壇があり、熱心な信者の家にはこんな祭壇が何台もある。信者はお祈りさながらに、ありがたくアナウンサーという牧師(僧侶)から毎日のニュースを聞き、信者の間で同じ価値観を共有し、そこに喜びとやすらぎや共感を覚える。その価値観は、その宗教の信仰にすぎないのだが「常識」と呼ばれ、唯一絶対の真理とされる。それを信仰しない者は、異端者や変わり者とされてしまう。そして、この宗教の怖いところは何かと言えば、自分が信者であるという自覚がまったくないことだ。むしろ、自分こそは正常な社会人や知識人、常識人であると思い込まされているのである。この宗教から人々が自由になる日は来るのだろうか。私は、その日は必ず来ると思う。

 お金とマスコミは、今の社会で絶対に必要とと思われている存在だが、じつはそのどちらも我々の信用から成り立っている。我々が信用しなくなれば、そのどちらも消え去ってしまう運命にある。そこでひとつ想像してみたい。「お金とマスコミがない世界」である。むろん、時代に逆行することは不可能だろうが、我々が絶対に必要だと思い込んでいるもの、その固定観念を一度崩して世界を見渡してみると、何か新しい発見があるかもしれない。

 我々は、人間が進めてきた文明や進歩を誇らしげに思ってきたし、便利さの飽くなき追求は止まらない。しかし、光には影がつきまとうものであることを、どこかで忘れてはいないだろうか。例えば携帯電話を持つようになったことで、いつでもコンタクトをとることができるようになった反面、仕事量が圧倒的に増えた。そんな例を出せばきりがない。

 また、お金が出現したことによって、人と人のつながりは、気薄なものになっと言ってもいいだろう。人と人のやり取りを何でもお金で済ませてしまう現代の都会と自分で作った野菜を分かち合う昔ながらの習慣が残る田舎を比べてみれば一目瞭然である。

 そもそも、お金もマスコミもなかったのだ。お金が突然なくなれば当然、社会はしばらくの間混乱するだろうが、やがてそれはそれで何とか成り立つはずである。

 アメリカ合衆国の創成期には約80年間、中央銀行のない時代(州銀行は存在)が続いたが、それでも国家は苦難をくぐりぬけ発達した。またマスコミがなくなれば、人々はもっと自主的に情報を伝達し合うよになるだろう。ますのように単に不安を煽るようなニュースばかりでなく、生活に本当に有益な情報が人々の間でやりとりされるはずだ。すると、自然に周りの人との関係も深くなり、地域が活性化されるだろう。また、お金がなければ、本当に好きなこと、あるいはやり甲斐のために働く人も確実に増えるにちがいない。こうして想像してみると、やはりお金もマスコミもたいして重要ではなく、それらがなくても社会は十分に成り立つと思えるがみなさんはどう考えるだろうか。

 本書でお伝えしたマスコミとお金の仕組み。国際銀行家による世界の支配構造は、社会をとてもマクロの視点から捉えたものだが、それさえ絶対のものではなく、数ある解釈の中のひとつの視点にすぎない。この見方だけにこだわって、全てにおいて疑心暗鬼になって精神のバランスを崩すようではいけないと思う。一般人の我々にとって大事なことはもっと身近なことである。マクロな視点を持ちながらも、身近な人との付き合いをより大切にしてほしい。そこでこそ、これらの情報や知識が生きてくる。人はどれほど知識や意識のレベルを高めたとしても、所詮だだの人にすぎないのだ。最後まで読んでいただいた皆様には心から感謝したい。

 そして、何よりもあなたがお金とマスコミに惑わされない幸せな人生を送ることを願う。







同じカテゴリー()の記事画像
牛乳なし給食 試行へ 新潟・三条市 牛乳について考える
ヘナサロンイシスと佐藤初女さん
上高田保育園の運動会
改正少年法成立 刑の上限引き上げよりも学校給食を変えよう!
究極のおもてなし
スラックラインで丹田教育
同じカテゴリー()の記事
 牛乳なし給食 試行へ 新潟・三条市 牛乳について考える (2014-12-12 11:04)
 ヘナサロンイシスと佐藤初女さん (2014-11-20 07:09)
 上高田保育園の運動会 (2014-11-12 08:15)
 改正少年法成立 刑の上限引き上げよりも学校給食を変えよう! (2014-04-18 06:21)
 究極のおもてなし (2013-06-19 06:05)
 スラックラインで丹田教育 (2013-06-10 20:27)

Posted by HAPPY BIRTH CAFE at 19:01│Comments(0)教育
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。