2012年08月20日
HAPPY BIRTH CAFE OPEN
HAPPY BIRTH CAFE 〜誕生日はおもてなし〜

これは中学生の頃にはじめて買ったケーキの本。

久しぶりにこの本でレシピでチーズケーキを作ってみた。
母親にプレゼントするためである。
今日、8月20日は自分の誕生日。
一休さんのモデルの一休宗純和尚は、自分の誕生日は母親につらい思いをさせた日ということで断食していたそうだ。
自分は断食のかわりにお菓子を作ってプレゼントするにしている。
このブログのHAPPY BIRTH CAFE という名前は誕生日がテーマになっている。
命という贈り物に感謝をする日が誕生日ではないのか?といつからか思うようになった。
母親の立場で考えると子どもの誕生日に子どもから手作りケーキをもらったらぜったい嬉しい。
そうとう嬉しいはずである。
カフェをして気がついたことだ。
自分の中でカフェとはおもてなしのことで、世界一のおもてなしというのは母親が自分を生んでくれたこと、今までずっとごはんを作り続け生かしてくれてことだと思った。
カフェをしてきてたどり着いたのがお母さんのおもてなしであり母性だった。
世界一のカフェ(おもてなし)は自分の母親だったのだ。
そのことに気がつくと母にたいし感謝の気持ちでいっぱいになる。
どうすれば世界一のおもてなしをしてくれた母親が喜んでくれるかを考えて自分の誕生日にカフェをすることにした。
HAPPY BIRTH CAFE ~誕生日はおもてなし〜
はそんな意味がある。
よくできたお話であるとかってに思っているが、もう一つ目的がある。
『HAPPY BIRTH CAFE ~誕生日はおもてなし〜』これを自分の子どもに伝えようと考えている。
今年の4月に子どもが生まれた。
麻光(あさひ)という名前。
お父さんが自分の誕生日にケーキを作って、おばあちゃんに持っていく姿を見て育ったとしたら子どもも誕生日というのはお母さんにお菓子を作る日だと思うようになるかもしれない。
麻光のおかあさんにもいつかHAPPY BIRTH CAFE を体験してほしいと思う。
母親のおもてなしに気づき感謝することにより、大自然というもう一人の母にも感謝できるようになる。
幸せはそこから生まれてくる。

これは中学生の頃にはじめて買ったケーキの本。
久しぶりにこの本でレシピでチーズケーキを作ってみた。
母親にプレゼントするためである。
今日、8月20日は自分の誕生日。
一休さんのモデルの一休宗純和尚は、自分の誕生日は母親につらい思いをさせた日ということで断食していたそうだ。
自分は断食のかわりにお菓子を作ってプレゼントするにしている。
このブログのHAPPY BIRTH CAFE という名前は誕生日がテーマになっている。
命という贈り物に感謝をする日が誕生日ではないのか?といつからか思うようになった。
母親の立場で考えると子どもの誕生日に子どもから手作りケーキをもらったらぜったい嬉しい。
そうとう嬉しいはずである。
カフェをして気がついたことだ。
自分の中でカフェとはおもてなしのことで、世界一のおもてなしというのは母親が自分を生んでくれたこと、今までずっとごはんを作り続け生かしてくれてことだと思った。
カフェをしてきてたどり着いたのがお母さんのおもてなしであり母性だった。
世界一のカフェ(おもてなし)は自分の母親だったのだ。
そのことに気がつくと母にたいし感謝の気持ちでいっぱいになる。
どうすれば世界一のおもてなしをしてくれた母親が喜んでくれるかを考えて自分の誕生日にカフェをすることにした。
HAPPY BIRTH CAFE ~誕生日はおもてなし〜
はそんな意味がある。
よくできたお話であるとかってに思っているが、もう一つ目的がある。
『HAPPY BIRTH CAFE ~誕生日はおもてなし〜』これを自分の子どもに伝えようと考えている。
今年の4月に子どもが生まれた。
麻光(あさひ)という名前。
お父さんが自分の誕生日にケーキを作って、おばあちゃんに持っていく姿を見て育ったとしたら子どもも誕生日というのはお母さんにお菓子を作る日だと思うようになるかもしれない。
麻光のおかあさんにもいつかHAPPY BIRTH CAFE を体験してほしいと思う。
母親のおもてなしに気づき感謝することにより、大自然というもう一人の母にも感謝できるようになる。
幸せはそこから生まれてくる。
2012年07月23日
イワンの馬鹿に学ぶ 革命とおもてなし

食べものを売らない
どうなるか
農家が自給自足を目的として食べ物を売らないと
みんな自分で食べ物を作らなければ生きていけなくなる
政治家も官僚も銀行家も。
国民皆の農家
国会議事堂ではなく長ぐつをはいて田んぼに行く
株価よりもお天気の心配をする
じょうずに話をするより手を早く動かす
人の顔色よりも稲の葉を眺め
銀座の料亭に行くよりも家の田んぼで作ったおむすびを家族と食べる
そのおむすびをどう感じるか
どっちがありがたいか。
満たされるか。
食べものは売らないかわりに
種を分け作り方を一緒に考える
そんな革命
「イワンの馬鹿」を紹介します。
http://ja.m.wikipedia.org/wiki/イワンのばか
あらすじ
昔ある国に、軍人のセミョーン、布袋腹のタラース、ばかのイワンと、彼らの妹で (おし)のマルタの4兄弟がいた。
ある日、都会へ出ていた兄たちが実家に戻ってきて「生活に金がかかって困っているので、財産を分けてほしい」と父親に言った。彼らの親不孝ぶりに憤慨している父親がイワンにそのことを言うと、ばかのイワンは「どうぞ、みんな二人に分けてお上げなさい」というので父親はその通りにした。
3人の間に諍いが起きるとねらっていた悪魔は何も起こらなかったのに腹を立て、3匹の小悪魔を使って、3人の兄弟にちょっかいを出す。権力欲の権化であるセミョーンと金銭欲の象徴のようなタラースは小悪魔たちに酷い目に合わされるが、ばかのイワンだけは、いくら悪魔が痛めても屈服せず、小悪魔たちを捕まえてしまう。小悪魔たちは、一振りすると兵隊がいくらでも出る魔法の穂や揉むと金貨がいくらでも出る魔法の葉、どんな病気にも効く木の根を出して助けを求める。イワンが小悪魔を逃がしてやるとき、「イエス様がお前にお恵みをくださるように」と言ったので、それ以来、小悪魔は地中深く入り、二度と出てこなかった。
イワンは手に入れた宝で、それで戦争をしたり贅沢をしたりするわけではなく、兵隊には踊らせたり唄わせたりして楽しみ、金貨は女や子供にアクセサリーや玩具として与えてしまう。無一文になった兄たちがイワンの所にかえってくると、イワンは喜んで養ってやったが、兄嫁たちには「こんな百姓家には住めない」と言われるので、イワンは兄たちの住む小屋を造った。兄たちはイワンが持っている兵隊や金貨を見て「それがあれば今までの失敗を取り戻せる」と考え、イワンは兄たちに要求されて兵隊や金貨を渡してやる。兄たちはそれを元手にして、やがて王様になった。
イワンは住んでいる国の王女が難病になったとき、小悪魔からもらった木の根で助けたので、王女の婿になって王様になった。しかし「体を動かさないのは性に合わない」ので、ただ人民の先頭に立って以前と同じく畑仕事をした。イワンの妻は夫を愛していたので、マルタに畑仕事を習って夫を手伝うようになった。イワンの王国の掟は「働いて手に胼胝(たこ)がある者だけ、食べる権利がある。手に胼胝のないものは、そのお余りを食べよ」と言うことだけだった。
ある日、小悪魔を倒された大悪魔は、人間に化けて兄弟たちの所にやってくる。セミョーンは将軍に化けた悪魔に騙されて戦争をして、タラースは商人に化けた悪魔に騙されて財産を巻き上げられて、再び無一文になる。最後に大悪魔はイワンを破滅させるために将軍に化けて軍隊を持つように仕向けるが、イワンの国では人民は皆ばかで、ただ働くだけなので悪魔に騙されない。今度は商人に化けて金貨をばらまくが、イワンの国ではみんな衣食住は満ち足りており、金を見ても誰も欲しがらない。そればかりか、悪魔は金で家を建てることができず、食べ物を買えないので残り物しか食べられず、逆に困窮して行く。
しまいに悪魔は「手で働くより、頭を使って働けば楽をして儲けることができる」と王や人民に演説するが、誰も悪魔を相手にしなかった。その日も悪魔は、高い櫓の上で、頭で働くことの意義を演説していたが、とうとう力尽きて、頭でとんとんと梯子を一段一段たたきながら地上に落ちた。ばかのイワンはそれを見て、「頭で働くとは、このことか。これでは頭に胼胝よりも大きな瘤ができるだろう。どんな仕事ができたか、見てやろう」と悪魔の所にやってくるが、ただ地が裂けて、悪魔は穴に吸い込まれてしまっただけだった。
イワン王国の掟
イワンの王国の掟は「働いて手に胼胝(たこ)がある者だけ、食べる権利がある。手に胼胝のないものは、そのお余りを食べよ」と言うことだけだった。
2011年04月28日
パチンコ必勝法


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高校生の頃にはじめてパチンコをやった。
サッカー部の仲間に誘われて行った。
確かフィーバーパワフル2という名前の台だった気がする。
ビギナーズラック☆
数日後、祖母におこずかいをもらった帰り道に再び
パチンコに行った。
5000円もって。
ところが一時間もたたないうちなくなってしまった。
超罪悪感…。
申し訳ない気持ちで心がいっぱになった。
いったい何をしているんだろう。
そのお金は祖父が一生懸命作った玉ねぎや長いもで稼いだお金だった。
ガーデントラクターで市場に運んで稼いだのだ。
それをパチンコで無駄にしてしまった。
その時でパチンコは卒業。
しかし、なんでみんなパチンコに行くのだろう?
勝ちたいからだけなのか?
いくら不景気でもパチンコ店にはいつも車が止まっている。
新聞には新台入荷のチラシがたくさん入ってくるし、テレビまでパチンコのコマーシャルまで流している。
さらにパチンコ店の中にATMまであると聞く。
やりすぎ。
そこで頭を究極のパチンコ必勝法を考えてみた。
すごく簡単。
日本人みんなでパチンコをやめる。
これがパチンコ必勝法☆
パチンコに行って台を攻略したことをパチンコに勝つとは言わない。
店に入った時点で負けている。
お金と時間と人生の無駄遣いである。
パチンコ店が日本からなくなってはじめてパチンコに勝ったといえると思う。
…とそんな事を考えてしまう本の紹介です。
若宮 健
「なぜ韓国はパチンコを全廃できたのか」
この本を読めば、明日からパチンコをやめられます。
タグ :パチンコ必勝法
2010年11月05日
テレビに時間を盗まれない
ハッピーレシピにある
☆テレビに時間を盗まれない
はプレアデスの本からもってきたものです。
☆テレビを消して自然の放送に耳を傾ける選択をしてください。地球の声に耳を傾けるのです。
プレアデス地球+をひらく鍵 p114より
http://www.amazon.co.jp/gp/aw/d/4884694244/ref=redir_mdp_mobile
この情報の時代において、自分で知識を収集するという自然なやり方からあなた方は遠ざけられてきました。テレビこそ素晴らしい情報源だだと信じこまされてきましたしかしあなた方のメディアは、あなた方を楽しまさせて意識を眠った状態にしておこうと願っている存在たちによって所有され、支配されているのです。彼らは選択された一定のヴァージョンだけを売りつけ、他のヴァージョンの存在は完全に無視しています。テレビはあなたの進化のプロセスを遅らせ、あなたを制限します。ことに幼い子供の場合はそれが著しいのです。子供のときの様様な印象、想像力が人生の展開においてきわめて重要な役割を果たします。テレビはあなた方を非常にせまい感情表現の領域に制限してしまいます。基本的には混乱と恐怖だけです。今日、かつてなかったほどの勢いでテレビをよしとするキャンペーンが展開しています。ケーブルテレビジョンを無料にしたり、テレビで放送されていることがあたかもいまこの瞬間にもっとも重要なことであるように、スキャンダルや暴力事件についての最新のニュースに釘づけしようと誘惑します。テレビを見ているときあなたがどのように感じるか、いまちょっと感じてみてみてください。それは周波数のコントロールです。このコントロールは途方もなく加速されており、テレビを通じて世界中に恐怖がばらまかれています。
地球上の人々の大半はいまこの瞬間にもテレビによって催眠術にかけられています。私たちが展開しているキャンペーンは、あなた方がつくられたイメージや他人の考えを通してだけでなく、人生を「直接的」に体験することを奨励するものです。テレビに時間を明け渡してしまうと、あなたの意識は損なわれ、意識がもっている潜在的な可能性は損なわれてしまいます。想像力は押さえられ、あなたのもっている最大の贈り物を使わなくなってしまうのです。何世紀かのちには、二〇世紀の後半にはテレビによって人々は半分眠った状態にされ、コントロールされ、病気になっていたことが理解されるでしょう。
どんな番組であれ、テレビを見るのは時間の無駄です。テレビはあなた方を人生の実体験から切り離し、体験の代わりの役割を果たします。みなさんにいっておきますが体験こそ学ぶための最善の方法です。あなた方のなかにはこういう人がいるかもしれません。「なかなかよいテレビ番組もありますよ。私は教育番組しか見ません」。しかし、私たちとしてはこう聞きたいと思います。「いい番組と同時にどんなものが放送されていると思いますか?」。あなたの家にどうしてもテレビをおいておきたいなら、コンセントをはずしてください。テレビをつけていないときでも、テレビを通してある周波数が送りこまれているのです。私たちのいおうとしていることが、おわかりいただけたでしょうか。あなたがこれまでに人生について学んだことについてもう一度考え直してください。そして自然の放送に耳を傾ける選択をしてください。地球の声に耳を傾けるのです。
テレビと528ヘルツ
http://mademoiselleai.nifty.com/madeailog/2012/02/528-7abd.html
テレビの真実
http://www.thinker-japan.sakura.ne.jp/think_media.html
☆テレビに時間を盗まれない
はプレアデスの本からもってきたものです。
☆テレビを消して自然の放送に耳を傾ける選択をしてください。地球の声に耳を傾けるのです。
プレアデス地球+をひらく鍵 p114より
http://www.amazon.co.jp/gp/aw/d/4884694244/ref=redir_mdp_mobile
この情報の時代において、自分で知識を収集するという自然なやり方からあなた方は遠ざけられてきました。テレビこそ素晴らしい情報源だだと信じこまされてきましたしかしあなた方のメディアは、あなた方を楽しまさせて意識を眠った状態にしておこうと願っている存在たちによって所有され、支配されているのです。彼らは選択された一定のヴァージョンだけを売りつけ、他のヴァージョンの存在は完全に無視しています。テレビはあなたの進化のプロセスを遅らせ、あなたを制限します。ことに幼い子供の場合はそれが著しいのです。子供のときの様様な印象、想像力が人生の展開においてきわめて重要な役割を果たします。テレビはあなた方を非常にせまい感情表現の領域に制限してしまいます。基本的には混乱と恐怖だけです。今日、かつてなかったほどの勢いでテレビをよしとするキャンペーンが展開しています。ケーブルテレビジョンを無料にしたり、テレビで放送されていることがあたかもいまこの瞬間にもっとも重要なことであるように、スキャンダルや暴力事件についての最新のニュースに釘づけしようと誘惑します。テレビを見ているときあなたがどのように感じるか、いまちょっと感じてみてみてください。それは周波数のコントロールです。このコントロールは途方もなく加速されており、テレビを通じて世界中に恐怖がばらまかれています。
地球上の人々の大半はいまこの瞬間にもテレビによって催眠術にかけられています。私たちが展開しているキャンペーンは、あなた方がつくられたイメージや他人の考えを通してだけでなく、人生を「直接的」に体験することを奨励するものです。テレビに時間を明け渡してしまうと、あなたの意識は損なわれ、意識がもっている潜在的な可能性は損なわれてしまいます。想像力は押さえられ、あなたのもっている最大の贈り物を使わなくなってしまうのです。何世紀かのちには、二〇世紀の後半にはテレビによって人々は半分眠った状態にされ、コントロールされ、病気になっていたことが理解されるでしょう。
どんな番組であれ、テレビを見るのは時間の無駄です。テレビはあなた方を人生の実体験から切り離し、体験の代わりの役割を果たします。みなさんにいっておきますが体験こそ学ぶための最善の方法です。あなた方のなかにはこういう人がいるかもしれません。「なかなかよいテレビ番組もありますよ。私は教育番組しか見ません」。しかし、私たちとしてはこう聞きたいと思います。「いい番組と同時にどんなものが放送されていると思いますか?」。あなたの家にどうしてもテレビをおいておきたいなら、コンセントをはずしてください。テレビをつけていないときでも、テレビを通してある周波数が送りこまれているのです。私たちのいおうとしていることが、おわかりいただけたでしょうか。あなたがこれまでに人生について学んだことについてもう一度考え直してください。そして自然の放送に耳を傾ける選択をしてください。地球の声に耳を傾けるのです。
テレビと528ヘルツ
http://mademoiselleai.nifty.com/madeailog/2012/02/528-7abd.html
テレビの真実
http://www.thinker-japan.sakura.ne.jp/think_media.html
2010年08月23日
誕生日ありがとう

みんなにしっかりおもてなしをしようと用意したけど
あけてみると
いろいろなプレゼント(お花(母にも)、本、ケーキ、アイスクリーム、CD、絵、カード、雑貨、ビール、石などや、来てくれたこと、メール、お手伝い、後片付けや思いなど)をいただいて逆におもてなしされたような誕生日
母親と妹たちも登場
母は花束をプレゼントしてもらって「結婚式いらいだわ」とすごく喜んでいました
しかしさすが母親
忙しそうな自分をみてお皿を洗ってくれたり、ご祝儀をくれたり。。。
あ〜ほんと神さまに見えるよ!お母様
てゆーか母親におもてなしするつもりだったのに、、あ〜あ〜
「いいから向こうで座っててよ」って言って強がるこうきちゃん
母親はいつになっても子どもの心配なのです
でもすごく良かったのは母親に普段、親しくしてもらっている人達を紹介できたこと
いつも心配ばかりかける息子でも周りにこんなに素敵な人たちがいてくれるならすこしは安心だわ
なんて思ってくれたはず
いつも自遊にバカなことができるのは周りの人たちにサポートされているおかげだなぁとあらためておもいました
今回の企画もちょっとしたひらめき発言「誕生日に神社でおもてなしがしたいっ!」から始まり、それをカタチにして宮崎幸喜の年表や遍愛マップ、その他いろいろをサポートというよりほとんどやってもらった星野ゆかりコーチ、場所をこころよく貸してくださった諏訪さん、来てくれたゲストのみなさん、メールでお祝いしてくれた方々、いままで関わってくれたすべての人
ありがたくて
ありがたすぎて
生きててよかったな〜って思えた33歳の誕生日でした
みなさんありがとう[e:247][e:420]
2010年08月07日
アルケミスト
村上春樹と答えますが、、
一番好きな本は?って言われたときには迷わずでてくるのが「アルケミスト」です
この本に出逢って良かったことが3つあります
1、好きな本をきかれても迷わなくなった
2、本をプレゼントするときに迷わなくなった
3、人生に迷わなくなった
ただ本棚に「アルケミスト」がある
それだけでうれしくなる自分にとっての聖書です
羊飼いの少年サンチャゴは、アンダルシアの平原からエジプトのピラミッドに向けて旅に出た。そこに、彼を待つ宝物が隠されいる夢を信じて。長い時間を共に過ごした羊たちを売り、アフリカの砂漠を越え少年はピラミッドを目指す。「何かを強く望めば宇宙のすべてが協力して実現するように助けてくれる」「前兆にしたがうこと」「すべては一つ」少年は錬金術師(アルケミスト)の導きと旅のさまざまな出会いと別れのなかで、人生の 知恵を学んで行く
現代人は夢を忘れてしまった、とよく言われます。子供たちは学業に追われ、大人はお金に縛られ自分の本当の夢が何であるか、覚えている暇も見つけだす機会も失っています。夢を諦めずにその夢を生きることがいかに大切であるかを、この本は私たちに教えてくれるのではないでしょうか。子供から大人まで、すべての方々に楽しんでいただきたいとおもいます
夢を探しにブックトリップしてみませんか
http://www.amazon.co.jp/gp/aw/d/404275001X/ref=redir_mdp_mobile
タグ :聖書
2010年05月14日
世界最大の宗教 お金とテレビ
宗教とテレビについて考える
本の紹介『偽情報退散!マスコミとお金は人の幸せをこうして食べている』 THINKER著より抜粋です
人は大きな可能性を持ってこの世にうまれてくる。赤ちゃんや小さな子供たちを見ていると、この子の人生にはどんな未来が広がっているのだろうと想像がかきたてられる。しかし一部の人を除き、多くの人は、年とともにその可能性がどんどん狭くなっていくように見受けられる。その原因には、親の育て方や画一化した学校教育、競争社会など様々なものがあげられるが、ここではその中で、テレビと宗教が与える影響を考えてみたい。テレビと宗教にどのような共通点があるのか。一見、そこには何の共通性もないが、歴史を振り返ると両者は生まれた時代が違うだけの双子であることがわかる。まだテレビがない時代、国家が人々をまとめるために使っていたものの一つが宗教である。古代の神殿は、人々から穀物と貴金属を集めるための場所だった。また、壮大な神殿や教会や、寺院の建設のために国民が労働に駆り出され、信仰は半ば強制された。
古代エジプトの神殿や中世ヨーロッパの教会、また奈良時代の大仏殿では、人々が神様や様々な形の偶像に祈りと寄付を捧げることで、国民は同じ精神性を共有していた。。時が変わり、今ではどうだろう。同じテレビ番組を見て同じ価値観を共有することで、人々の間に同意と共感がもたらされている。そして、我々にはテレビがニュースや娯楽を提供してくれる側面はよく見えるが、テレビの果たすもうひとつの役割はあまり見えてこない。それは人々の注意や関心を引きつけ、エネルギーを吸い取る働きである。ここで言うエネルギーとは、物質(肉体)的なエネルギーと精神的なエネルギーの両方を言う。
宗教を、例にとるとわかりやすい。宗教では、人々の物質(肉体)的エネルギーがお金や物品の寄付や献身(労働)という形で集められ、精神的なエネルギーは信仰心という形で集められる。テレビにおいては、少し複雑になる。物質的なエネルギーは、テレビに出演するお笑い芸人、アイドル、スポーツ選手、セレブなど様々な種類の芸能人への報酬を視聴者が直接または間接的に負担することで回収される。国民は、働いて得たお金でお気に入りのスポーツを観戦したり、アイドルのコンサートに行ったり、また、特別ひいきの芸能人がいない国民でも、彼らが宣伝する様々な商品を購入するという形で芸能界やテレビ産業に金銭的な貢献をしている。
また、精神的なエネルギーは、アイドルや役者への羨望や崇拝、お笑い芸人に対する笑や共感、またはスポーツ選手に対する熱狂という形で集められるこれらは、昔の宗教に対する信仰心が現代に形を変えた同一のものと見ることができる。テレビを見ることが、どうして精神的なエネルギーを吸い取られていることになるのか、ピンと来ない人もいるかもしれない。確かに、視聴者側がテレビ観賞から元気をもらうこともあるだろう。
人生は楽しむべきものであり、これらの娯楽のどこにも間違ったことはない。しかし、そこには明らかな代償がある。それは、崇拝や熱狂や関心の対象が自分以外のものや人に向けられ、「自分」という存在が見過ごされてしまうことである。また、宗教を例にとるとわかりやすい。きらびやかな教会や寺院の中、金ぴかの仏像や立派な像を前にして、神の壮大さや心理の素晴らしさが説かれていた昔、人々は何を感じていたか。それは謙虚さと言えば聞こえはよいが、人びとはただ圧倒され、無力感や自分の存在の小ささを実感して、宗教を通じて国家への従順さと信仰心が養われていた。壮大な宗教施設と同じように、莫大な資本と才能がふんだんに注ぎ込まれた芸能界やプロスポーツ界の人々のが登場するテレビ画面を前にしても、同じことが起きる。有名人やカリスマを見習って自分自身も何かにチャレンジしようとする人よりも、彼らを従順に崇拝する人々のの方が圧倒的に多くなってしまうのだ。
自分の精神レベルを上げることよりも、崇拝する対象に人生を捧げようという姿勢である。その結果として一般市民の多くが、一消費者や観客として人生を終えてしまう。そして、さらにもうひとつの代償がある。それは社会全体像の損失である。今の世界の現状は、戦争も飢餓も環境問題も格差社会のどれも解決されないままである。その状態を改善するには、おおくの人間の協力が必要であり、成熟した大人の大半が娯楽を最優先するような社会は、健全なものには見えない。人々がテレビの中の対象物に向ける関心や情熱が自分自身や社会の改善のために向けられたとしたら、どれほど物事が前進するだろうか。少し想像してみてほしい。
以上、テレビと宗教の及ぼす影響の共通性をあげたが、現代の多くの宗教は、昔の宗祖の教えから大きく逸脱したものになってしまっている。そのことを追加して述べてみたい。
現代でも何らかの宗教を信仰する人にとって、宗教とは神聖なもの、または人生の指針となるものである。一方、宗教をまったく信じない人にとっての宗教とは自分には縁のないもの、または年中行事や冠婚葬祭のときにだけ関わるもの、もしくは、弱者が頼りにしたり、何か怪しい洗脳を受けたりするものとしてのイメージが強いだろう。おそらく、大半の日本人は、特に熱心な宗教を持たない後者の部類に入ると思う。しかし、このような宗教のイメージに反して、世界の伝統的宗教では本来、何かに追従したり、何かを崇拝したりすることはおしえてはいない。
仏教において、神は人間と同じ生命の一種であり、崇拝の対象ではなかった。神だけではなく何かを信仰すること自体、勧められていない。また、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教では教義上、偶像崇拝は厳しく禁じられていた。神の具体的なイメージが与えられなかったため、これら一神教の信徒は多神教の信徒に比べ、人生の諸問題に対する自発的な判断力や分析力、解決力などをみがかれたとされる。
また神道では、ご神体である神鏡に映しだされる自分自身に神の霊性を見出すことが本来の教えだった。これらの教えは全て時代が下がるとともに、いつもまにか人間の勝ってな都合で、十字架や仏像といった陳腐な偶像崇拝に変えられ、人々は原始的な「崇拝や信仰」という追従的な精神性に陥ることになった。そして、本来の教えである自分自身を客観的に見つめることや物事の本質を見極める精神性から遠ざかってしまったのだ。
逸脱した宗教のバリエーションは時代とともにさらに広がり、崇拝や信仰は今や宗教以外の社会の様々な分野で蔓延している。大学や学界など、科学的事実を探求すべき学問の世界にも古臭い権威信仰が存在し、
企業や官公庁などの組織やありとあらゆる業界に極度の上位者崇拝の習慣があることは、誰もが知ることだろう。ここ最近では、格差社会の勝ち組になるために提供されるアメリカ製のネットワークビジネスや成功哲学信奉者などに現代版の上位者崇拝や信仰精神を見ることもできる。
対象が何であれ、崇拝や信仰が最終的に行き着く先はお金や権利である。大衆は心の安定や希望を得るために常に何かを信奉し、お金を支払うことでその権威を支えてきた。しかし、神は人間のお金を必要とせず、自分を見つめることにもお金はかからない。お金を必要としているのは、上位の人間である。その最上位にはどんな人々がいるか、賢明な読者にはこれ以上の説明はいらないだろう。「神」「真理」「悟り」「平和」「成功」「安心」というもっともらしい大義名分は、大衆を釣るためのエサにすぎない。これらの偶像と決別し、何ものも権威としない個人が増えることが、お金を超えた健全な社会の基盤を作ると考えるがどうだろうか。
それにはまず、権威を疑う前に、何らかの権威をよりどころにしてきた自分自身と向き合うことが必要かもしれない。
この世界を支配している宗教
それは、お金とマスコミである!私もあなたもその信者だ
こんなことをいきなり言われたらビックリされるかもしれない。しかし、最後まで読んでくれた読者には、納得のいく話だろう。
宗教とは信者にとって何が善で何が悪か、また、どのように生きるべきかを決めるものである。そういった意味で、自分が何を信じているか、何の信者なのかは、自分の生き様、毎日の生活を見ればよくわかる。いかにお金に、左右されて仕事を選び、人付き合いを選び、マスコミの情報に左右され、自分の行動を決めていることか。お金とマスコミがいかに周りの人の価値観や生き様を決定しているか。その影響の与え方はそんじょそこらの宗教の比ではない。その影響力の範囲は、人種、性別、国籍、年齢、職業の全てを超えている。ここまで人を動かすものを宗教と呼ばずして、一体何と呼んだら良いのか、他に言葉が見当たらない。だから、お金とマスコミこそは、世界最大の唯一ホンモノの宗教であると言いたい。この宗教において、神様は、信者には姿の見えない「国際銀行家」である。穀物マネーの時代から神殿が銀行の役割をしてきたが、今や銀行が神殿となった。この神殿は大小含め、世界各地にあり、彼らの印を押した紙が世界中でばら撒かれている。この紙には、神が保証する絶対的な価値があり、これをたくさん持っている信者が偉いとされる。その普及活動は世界各地のテレビ局から電波を通じて行われる。
各家庭にはテレビという祭壇があり、熱心な信者の家にはこんな祭壇が何台もある。信者はお祈りさながらに、ありがたくアナウンサーという牧師(僧侶)から毎日のニュースを聞き、信者の間で同じ価値観を共有し、そこに喜びとやすらぎや共感を覚える。その価値観は、その宗教の信仰にすぎないのだが「常識」と呼ばれ、唯一絶対の真理とされる。それを信仰しない者は、異端者や変わり者とされてしまう。そして、この宗教の怖いところは何かと言えば、自分が信者であるという自覚がまったくないことだ。むしろ、自分こそは正常な社会人や知識人、常識人であると思い込まされているのである。この宗教から人々が自由になる日は来るのだろうか。私は、その日は必ず来ると思う。
お金とマスコミは、今の社会で絶対に必要とと思われている存在だが、じつはそのどちらも我々の信用から成り立っている。我々が信用しなくなれば、そのどちらも消え去ってしまう運命にある。そこでひとつ想像してみたい。「お金とマスコミがない世界」である。むろん、時代に逆行することは不可能だろうが、我々が絶対に必要だと思い込んでいるもの、その固定観念を一度崩して世界を見渡してみると、何か新しい発見があるかもしれない。
我々は、人間が進めてきた文明や進歩を誇らしげに思ってきたし、便利さの飽くなき追求は止まらない。しかし、光には影がつきまとうものであることを、どこかで忘れてはいないだろうか。例えば携帯電話を持つようになったことで、いつでもコンタクトをとることができるようになった反面、仕事量が圧倒的に増えた。そんな例を出せばきりがない。
また、お金が出現したことによって、人と人のつながりは、気薄なものになっと言ってもいいだろう。人と人のやり取りを何でもお金で済ませてしまう現代の都会と自分で作った野菜を分かち合う昔ながらの習慣が残る田舎を比べてみれば一目瞭然である。
そもそも、お金もマスコミもなかったのだ。お金が突然なくなれば当然、社会はしばらくの間混乱するだろうが、やがてそれはそれで何とか成り立つはずである。
アメリカ合衆国の創成期には約80年間、中央銀行のない時代(州銀行は存在)が続いたが、それでも国家は苦難をくぐりぬけ発達した。またマスコミがなくなれば、人々はもっと自主的に情報を伝達し合うよになるだろう。ますのように単に不安を煽るようなニュースばかりでなく、生活に本当に有益な情報が人々の間でやりとりされるはずだ。すると、自然に周りの人との関係も深くなり、地域が活性化されるだろう。また、お金がなければ、本当に好きなこと、あるいはやり甲斐のために働く人も確実に増えるにちがいない。こうして想像してみると、やはりお金もマスコミもたいして重要ではなく、それらがなくても社会は十分に成り立つと思えるがみなさんはどう考えるだろうか。
本書でお伝えしたマスコミとお金の仕組み。国際銀行家による世界の支配構造は、社会をとてもマクロの視点から捉えたものだが、それさえ絶対のものではなく、数ある解釈の中のひとつの視点にすぎない。この見方だけにこだわって、全てにおいて疑心暗鬼になって精神のバランスを崩すようではいけないと思う。一般人の我々にとって大事なことはもっと身近なことである。マクロな視点を持ちながらも、身近な人との付き合いをより大切にしてほしい。そこでこそ、これらの情報や知識が生きてくる。人はどれほど知識や意識のレベルを高めたとしても、所詮だだの人にすぎないのだ。最後まで読んでいただいた皆様には心から感謝したい。
そして、何よりもあなたがお金とマスコミに惑わされない幸せな人生を送ることを願う。
本の紹介『偽情報退散!マスコミとお金は人の幸せをこうして食べている』 THINKER著より抜粋です
人は大きな可能性を持ってこの世にうまれてくる。赤ちゃんや小さな子供たちを見ていると、この子の人生にはどんな未来が広がっているのだろうと想像がかきたてられる。しかし一部の人を除き、多くの人は、年とともにその可能性がどんどん狭くなっていくように見受けられる。その原因には、親の育て方や画一化した学校教育、競争社会など様々なものがあげられるが、ここではその中で、テレビと宗教が与える影響を考えてみたい。テレビと宗教にどのような共通点があるのか。一見、そこには何の共通性もないが、歴史を振り返ると両者は生まれた時代が違うだけの双子であることがわかる。まだテレビがない時代、国家が人々をまとめるために使っていたものの一つが宗教である。古代の神殿は、人々から穀物と貴金属を集めるための場所だった。また、壮大な神殿や教会や、寺院の建設のために国民が労働に駆り出され、信仰は半ば強制された。
古代エジプトの神殿や中世ヨーロッパの教会、また奈良時代の大仏殿では、人々が神様や様々な形の偶像に祈りと寄付を捧げることで、国民は同じ精神性を共有していた。。時が変わり、今ではどうだろう。同じテレビ番組を見て同じ価値観を共有することで、人々の間に同意と共感がもたらされている。そして、我々にはテレビがニュースや娯楽を提供してくれる側面はよく見えるが、テレビの果たすもうひとつの役割はあまり見えてこない。それは人々の注意や関心を引きつけ、エネルギーを吸い取る働きである。ここで言うエネルギーとは、物質(肉体)的なエネルギーと精神的なエネルギーの両方を言う。
宗教を、例にとるとわかりやすい。宗教では、人々の物質(肉体)的エネルギーがお金や物品の寄付や献身(労働)という形で集められ、精神的なエネルギーは信仰心という形で集められる。テレビにおいては、少し複雑になる。物質的なエネルギーは、テレビに出演するお笑い芸人、アイドル、スポーツ選手、セレブなど様々な種類の芸能人への報酬を視聴者が直接または間接的に負担することで回収される。国民は、働いて得たお金でお気に入りのスポーツを観戦したり、アイドルのコンサートに行ったり、また、特別ひいきの芸能人がいない国民でも、彼らが宣伝する様々な商品を購入するという形で芸能界やテレビ産業に金銭的な貢献をしている。
また、精神的なエネルギーは、アイドルや役者への羨望や崇拝、お笑い芸人に対する笑や共感、またはスポーツ選手に対する熱狂という形で集められるこれらは、昔の宗教に対する信仰心が現代に形を変えた同一のものと見ることができる。テレビを見ることが、どうして精神的なエネルギーを吸い取られていることになるのか、ピンと来ない人もいるかもしれない。確かに、視聴者側がテレビ観賞から元気をもらうこともあるだろう。
人生は楽しむべきものであり、これらの娯楽のどこにも間違ったことはない。しかし、そこには明らかな代償がある。それは、崇拝や熱狂や関心の対象が自分以外のものや人に向けられ、「自分」という存在が見過ごされてしまうことである。また、宗教を例にとるとわかりやすい。きらびやかな教会や寺院の中、金ぴかの仏像や立派な像を前にして、神の壮大さや心理の素晴らしさが説かれていた昔、人々は何を感じていたか。それは謙虚さと言えば聞こえはよいが、人びとはただ圧倒され、無力感や自分の存在の小ささを実感して、宗教を通じて国家への従順さと信仰心が養われていた。壮大な宗教施設と同じように、莫大な資本と才能がふんだんに注ぎ込まれた芸能界やプロスポーツ界の人々のが登場するテレビ画面を前にしても、同じことが起きる。有名人やカリスマを見習って自分自身も何かにチャレンジしようとする人よりも、彼らを従順に崇拝する人々のの方が圧倒的に多くなってしまうのだ。
自分の精神レベルを上げることよりも、崇拝する対象に人生を捧げようという姿勢である。その結果として一般市民の多くが、一消費者や観客として人生を終えてしまう。そして、さらにもうひとつの代償がある。それは社会全体像の損失である。今の世界の現状は、戦争も飢餓も環境問題も格差社会のどれも解決されないままである。その状態を改善するには、おおくの人間の協力が必要であり、成熟した大人の大半が娯楽を最優先するような社会は、健全なものには見えない。人々がテレビの中の対象物に向ける関心や情熱が自分自身や社会の改善のために向けられたとしたら、どれほど物事が前進するだろうか。少し想像してみてほしい。
以上、テレビと宗教の及ぼす影響の共通性をあげたが、現代の多くの宗教は、昔の宗祖の教えから大きく逸脱したものになってしまっている。そのことを追加して述べてみたい。
現代でも何らかの宗教を信仰する人にとって、宗教とは神聖なもの、または人生の指針となるものである。一方、宗教をまったく信じない人にとっての宗教とは自分には縁のないもの、または年中行事や冠婚葬祭のときにだけ関わるもの、もしくは、弱者が頼りにしたり、何か怪しい洗脳を受けたりするものとしてのイメージが強いだろう。おそらく、大半の日本人は、特に熱心な宗教を持たない後者の部類に入ると思う。しかし、このような宗教のイメージに反して、世界の伝統的宗教では本来、何かに追従したり、何かを崇拝したりすることはおしえてはいない。
仏教において、神は人間と同じ生命の一種であり、崇拝の対象ではなかった。神だけではなく何かを信仰すること自体、勧められていない。また、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教では教義上、偶像崇拝は厳しく禁じられていた。神の具体的なイメージが与えられなかったため、これら一神教の信徒は多神教の信徒に比べ、人生の諸問題に対する自発的な判断力や分析力、解決力などをみがかれたとされる。
また神道では、ご神体である神鏡に映しだされる自分自身に神の霊性を見出すことが本来の教えだった。これらの教えは全て時代が下がるとともに、いつもまにか人間の勝ってな都合で、十字架や仏像といった陳腐な偶像崇拝に変えられ、人々は原始的な「崇拝や信仰」という追従的な精神性に陥ることになった。そして、本来の教えである自分自身を客観的に見つめることや物事の本質を見極める精神性から遠ざかってしまったのだ。
逸脱した宗教のバリエーションは時代とともにさらに広がり、崇拝や信仰は今や宗教以外の社会の様々な分野で蔓延している。大学や学界など、科学的事実を探求すべき学問の世界にも古臭い権威信仰が存在し、
企業や官公庁などの組織やありとあらゆる業界に極度の上位者崇拝の習慣があることは、誰もが知ることだろう。ここ最近では、格差社会の勝ち組になるために提供されるアメリカ製のネットワークビジネスや成功哲学信奉者などに現代版の上位者崇拝や信仰精神を見ることもできる。
対象が何であれ、崇拝や信仰が最終的に行き着く先はお金や権利である。大衆は心の安定や希望を得るために常に何かを信奉し、お金を支払うことでその権威を支えてきた。しかし、神は人間のお金を必要とせず、自分を見つめることにもお金はかからない。お金を必要としているのは、上位の人間である。その最上位にはどんな人々がいるか、賢明な読者にはこれ以上の説明はいらないだろう。「神」「真理」「悟り」「平和」「成功」「安心」というもっともらしい大義名分は、大衆を釣るためのエサにすぎない。これらの偶像と決別し、何ものも権威としない個人が増えることが、お金を超えた健全な社会の基盤を作ると考えるがどうだろうか。
それにはまず、権威を疑う前に、何らかの権威をよりどころにしてきた自分自身と向き合うことが必要かもしれない。
この世界を支配している宗教
それは、お金とマスコミである!私もあなたもその信者だ
こんなことをいきなり言われたらビックリされるかもしれない。しかし、最後まで読んでくれた読者には、納得のいく話だろう。
宗教とは信者にとって何が善で何が悪か、また、どのように生きるべきかを決めるものである。そういった意味で、自分が何を信じているか、何の信者なのかは、自分の生き様、毎日の生活を見ればよくわかる。いかにお金に、左右されて仕事を選び、人付き合いを選び、マスコミの情報に左右され、自分の行動を決めていることか。お金とマスコミがいかに周りの人の価値観や生き様を決定しているか。その影響の与え方はそんじょそこらの宗教の比ではない。その影響力の範囲は、人種、性別、国籍、年齢、職業の全てを超えている。ここまで人を動かすものを宗教と呼ばずして、一体何と呼んだら良いのか、他に言葉が見当たらない。だから、お金とマスコミこそは、世界最大の唯一ホンモノの宗教であると言いたい。この宗教において、神様は、信者には姿の見えない「国際銀行家」である。穀物マネーの時代から神殿が銀行の役割をしてきたが、今や銀行が神殿となった。この神殿は大小含め、世界各地にあり、彼らの印を押した紙が世界中でばら撒かれている。この紙には、神が保証する絶対的な価値があり、これをたくさん持っている信者が偉いとされる。その普及活動は世界各地のテレビ局から電波を通じて行われる。
各家庭にはテレビという祭壇があり、熱心な信者の家にはこんな祭壇が何台もある。信者はお祈りさながらに、ありがたくアナウンサーという牧師(僧侶)から毎日のニュースを聞き、信者の間で同じ価値観を共有し、そこに喜びとやすらぎや共感を覚える。その価値観は、その宗教の信仰にすぎないのだが「常識」と呼ばれ、唯一絶対の真理とされる。それを信仰しない者は、異端者や変わり者とされてしまう。そして、この宗教の怖いところは何かと言えば、自分が信者であるという自覚がまったくないことだ。むしろ、自分こそは正常な社会人や知識人、常識人であると思い込まされているのである。この宗教から人々が自由になる日は来るのだろうか。私は、その日は必ず来ると思う。
お金とマスコミは、今の社会で絶対に必要とと思われている存在だが、じつはそのどちらも我々の信用から成り立っている。我々が信用しなくなれば、そのどちらも消え去ってしまう運命にある。そこでひとつ想像してみたい。「お金とマスコミがない世界」である。むろん、時代に逆行することは不可能だろうが、我々が絶対に必要だと思い込んでいるもの、その固定観念を一度崩して世界を見渡してみると、何か新しい発見があるかもしれない。
我々は、人間が進めてきた文明や進歩を誇らしげに思ってきたし、便利さの飽くなき追求は止まらない。しかし、光には影がつきまとうものであることを、どこかで忘れてはいないだろうか。例えば携帯電話を持つようになったことで、いつでもコンタクトをとることができるようになった反面、仕事量が圧倒的に増えた。そんな例を出せばきりがない。
また、お金が出現したことによって、人と人のつながりは、気薄なものになっと言ってもいいだろう。人と人のやり取りを何でもお金で済ませてしまう現代の都会と自分で作った野菜を分かち合う昔ながらの習慣が残る田舎を比べてみれば一目瞭然である。
そもそも、お金もマスコミもなかったのだ。お金が突然なくなれば当然、社会はしばらくの間混乱するだろうが、やがてそれはそれで何とか成り立つはずである。
アメリカ合衆国の創成期には約80年間、中央銀行のない時代(州銀行は存在)が続いたが、それでも国家は苦難をくぐりぬけ発達した。またマスコミがなくなれば、人々はもっと自主的に情報を伝達し合うよになるだろう。ますのように単に不安を煽るようなニュースばかりでなく、生活に本当に有益な情報が人々の間でやりとりされるはずだ。すると、自然に周りの人との関係も深くなり、地域が活性化されるだろう。また、お金がなければ、本当に好きなこと、あるいはやり甲斐のために働く人も確実に増えるにちがいない。こうして想像してみると、やはりお金もマスコミもたいして重要ではなく、それらがなくても社会は十分に成り立つと思えるがみなさんはどう考えるだろうか。
本書でお伝えしたマスコミとお金の仕組み。国際銀行家による世界の支配構造は、社会をとてもマクロの視点から捉えたものだが、それさえ絶対のものではなく、数ある解釈の中のひとつの視点にすぎない。この見方だけにこだわって、全てにおいて疑心暗鬼になって精神のバランスを崩すようではいけないと思う。一般人の我々にとって大事なことはもっと身近なことである。マクロな視点を持ちながらも、身近な人との付き合いをより大切にしてほしい。そこでこそ、これらの情報や知識が生きてくる。人はどれほど知識や意識のレベルを高めたとしても、所詮だだの人にすぎないのだ。最後まで読んでいただいた皆様には心から感謝したい。
そして、何よりもあなたがお金とマスコミに惑わされない幸せな人生を送ることを願う。