衣食住遊 イセヒカリ 今日無事生かして頂いてありがとう御座います

2014年07月15日

「WOOD JOB!(ウッジョブ)〜神去なあなあ日常〜」林業の映画と現実 松枯れ被害と狩猟系女子


職場の同僚である。佐藤くん。
昆虫(とくにシリアゲムシ)が好きで神奈川から長野に来て林業の仕事をしている。
昆虫食もするワイルドな青年

「WOOD JOB!(ウッジョブ)〜神去なあなあ日常〜」
http://youtu.be/ypQi69XGs6U
仕事が雨で休みの日にウッジョブを観てきた。
現在は林業の仕事をしているのでどんな映画なのか興味があったのだ。
面白い映画だった。
理想的な林業だ。

自分の職場は映画とまったく違う。
現在職場での仕事の大半は松枯れの処理。
http://happybirthcafe.naganoblog.jp/e1410664.html
残りは間伐などで、枝打ちとか植林とかはやっていない。
材木の値段は安くて、映画のように木を育てて手入れをする林業はすでに成り立たなくなっている。
仕事の大半は行政からの依頼でその内容が松枯れの処理と間伐。
以前から松枯れの処理に疑問をいだいていたが、実際に現場で働いていて松枯れの原因とされているセンチュウを媒介させるというカミキリムシはほとんど見かけない。玉切りしてもカミキリムシの幼虫などはほとんど見かけない。
もしカミキリムシが原因だとしたらもっともっと見かけるはずだ。
処理しても処理しても松枯れの被害はいっこうに減らず増えるばかり。税金を使い山に農薬の空中散布をしたりビニールや燻蒸剤をまいて自然を破壊しているだけ。
松枯れの原因は「松くい虫」ということで誰が利益を上げているか。
原発問題も戦争も松くいも、根本は変わらない。
などと愚痴をいってみても状況はなにもかわらないので山の現状を調べて対策を考えてみようと思う。


現実は映画よりすごい。
ウッジョブ!
長野県の強く美しい猟師
原 薫さんから学ぶ林業の現状

プロローグ
誇りある日本人のための志誌
Japnist No.5より抜粋

七輪の前の神さまごと

文・原 伸介


妻は猟師である。

言い間違いではない。
理容師でも、上司でもない。
猟師である。

毎年、冬になると猟銃を担いで山に入り、鹿や猪や熊を撃ち、時には数時間かけて現場から引き出し、解体し、肉にする。
誤解なきよう申し上げておくが妻は女性だ。
二十代から始めた彼女の狩猟歴は十年を超え、結婚する時には既に狩猟免許を持っていた。「結婚は命がけだ」と誰が言っていたが、彼女が自分の部屋で猟銃の手入れをしている様子を戸の隙間から初めてそっと覗き見たとき、「たしかにその通りだ」と思った。
先日、二人揃って炭山(僕が炭を焼いている山)へ出かけた。
彼女の肩には、鈍い光を放つ、手入れの行き届いたあの道具が架かっている。
「今日は鳥を狙うから」
自分が人間でよかった、と心からおもった。
彼女は我が家の猟犬 ーーー紀州犬の「銀」と甲斐犬の「小次郎」ーーーを二頭引き連れ、機敏な動きであっという間に山の奥へと消えた。
僕は作業ポケットから出した軍手をのろのろとはめて、竹箒を手に窯庭(炭窯の前の平らな場所)を掃きはじめた。
窯庭の掃除が終わろうかというとき、「パーン!」という乾いた音が谷あいに谺した。
しばらくして戻ってきた彼女はちょっとこれ持ってて」と僕の手のひらの上に何かを乗せ、再び山奥へと消えた。その早さと勢いに半ば圧倒されながら改めて手のひらに目をやると、それは文鳥ほどの大きさの小鳥だった。その瞼は既に固く閉じられ、小さな体は萎縮したように硬直していた。
"死んでいる"ーーーそう実感したとき、手袋のまま小鳥を扱うことに違和感を覚えて(失礼な気がして)、僕は軍手を外し、再びその小鳥をそっと手の中に入れた。
「あっ……」
瞬間、複雑な感情に襲われた。
まだ、温かいのだ。

手の平に収まるほど小さな命のぬくもりは、同心円状に広がって、あっという間に僕の全身を包み込んだ。
命のともしびは既に消えているはずなのに、たしかに温かい---その矛盾に僕は当惑した。
しかし、改めてそのぬくもりを実感した刹那、抑えがたい愛しさが湧き上がり、頭では「もう死んでいるのだ」とわ分かっていながら、僕は小鳥を両手でそっと抱きしめずにいられなかった。

妻はいつも言う。「動物の命を殺める猟が楽しいわけがない」と。「猟を趣味だと思ってほしくない」とも。
ならば、なぜつづけるのか。
それは、この時代に《ほんとうの命の重さ》を実感、それを伝えることができる稀有な存在が猟師だと考えているからだ。
元来、「マタギ」と呼ばれる日本の伝統的猟師は、獲れた獲物を「山の神さまからの授かりもの」と捉え、その毛皮のみならず、骨一本に至るまで無駄にせずに利用しつくした。そして、授かった命に対する感謝と供養をぜったい忘れなかった。
それが命と向き合う者の当然の姿勢であり、礼儀だった。

野生動物を殺すのはかわいそう、熊をハンターから守れ……。そのような声を耳にすることがある。
野生動物を殺すのはたしかにかわいそうなことだ。僕もそう思う。
ならば、飼育動物を殺すことは?
熊や鹿や猪や野鳥を殺すのはかわいそうなことで、豚舎や牛舎や養鶏場にいる豚や牛や鳥を殺すのはかわいそうなことではない---まさかそんなはずはないだろう。
「かわいそう」という基準で考えるなら、大自然の中で伸び伸びと生きてきて何百、何千分の一の確率で猟師に仕留められる野生動物と、人間に食べられるためだけに餌を与えられ、狭い空間に閉じこめれて、100パーセント屠殺されるまでの時間を待つだけの飼育動物とほんとうにかわいそうなのはどちらだろう。

炭に焼く原木を伐る度に思う。伐っている時に出るおが屑が、もし血しぶきだったらーーーと。木を伐っても、叫び声や血しぶきが上がることはない。しかし、それを伐った(切った)とき、たしかにその命を奪っているという事実は、動物でも植物(樹木や野菜)でも変わらない。ベジタリアンさえ、殺生の上に成り立っているのだ。
人として生を受けた以上、どのような形であれ他の命を奪わずに生きていくことはできない。それが人間の業であり、宿命であるとしたら、いただいた命に対して「深く感謝してそれを活かしきる」しかないーーーと僕は思っている。
今まで十五年間、何千本と木を伐ってきた。炭の原木になる広葉樹は切り株から芽を出して再生するとは言え、それでも立木(立っている木)に刃を当てるときは毎回心が痛む。だから、伐る前には必ず心の中で「伐らせていただきます。無駄なく使わせていただきます」と祈り、頭を下げる。
山の神さまから妻が授かるのが野生動物の命ならば、僕が授かるのは炭の原木という名の木々の命。二人とも、山の命をいただいて生かされているから、山の神さまに対する感謝と畏敬の念を忘れない。

たしかに今の時代、わざわざ山に入って野生動物を殺さなくても、誰も食べるものには困らないし、わざわざ木を伐って炭を焼かなくても、誰も燃料には困らない。でも、その「困らない」ことこそが、ほんとうはとても「恐ろしいこと」だということに気づいている人は、ほとんどいない。
人が生きていく上で忘れてはならない「他の命をいただいて生かされている」という事実を、実感として体に刻みつづけ、それを伝える者が絶えてしまったとき、自然に対する人間の傲慢さへの歯止めをいったい誰がかけるのか。

昔の人は「山のことは猟師に聞け」「山のことは炭焼きに聞け」と言った。山に対する知識と経験を豊かに持っていたのが、猟師と炭焼きだった。
《自然との共生》という言葉を耳にするようになって久しいがIT全盛の今の日本に、ほんとうの意味で自然と共に生きる知恵を持っている人間はいったいどれだけいるだろう。
日本人にとって《自然》とほぼ同義である《森=山》から猟師と炭焼きがいなくなったとき、日本人は自然と共生する最後の知恵を失うだろう。それは同時に、日本人が日本人でなくなることを意味する。なぜなら、日本文化は、豊かな森の知恵に支えられた《木の文化》をその源泉としているからだ。

IT技術がどれほど発達しようとも、人間が生身で生きているという事実は、二百万年前も今もまったく変わらない。日本人が自然から大きく離れつつある時代だからこそ、猟師と炭焼きには、「リアルな命の実感」と「共生の知恵」と「自然に対する感謝と畏敬」を伝えつづける役割があると僕は信じている。それが"山に生かされている"自分たちの、山の神さまへの恩返しであるとも---。

本日の授かりもの小鳥一羽。
山を下りるとき、山の神さまを祀ってある場所で二人一緒に手を合わせ、頭を下げる。
軽トラに乗り込む前に、彼女は丁寧に羽毛を抜き、ナイフで内臓のひとつひとつを説明しながらみせてくれた。「これが肝臓、こっちが心臓……」。
どれも豆粒よりも小さかったけれどそれがさっきまで自分の手の中でぬくもりの余韻を残していたあの命の分身だと思うと、自ずと背筋がシャンとした。

家に帰ると炭を熾し、七輪の網の上に"授かりもの"を乗せた。
カミさんが獲った鳥をダンナが焼いた炭で焼く---『日本昔話』みたいだ。
ほどなくそれはいい塩梅にこんがりと焼けて香ばしい薫りを放ち始めた。
僕はカミさんに感謝を伝え、目の前の授かりものに手を合わせて「いただきます」と頭を下げると、ゆっくりそれを口に運んだ。
---今、口の中にあるのはたしかにさっき両手で抱きしめて愛おしんだ、あの命。
今度は口の中で抱きしめるように、僕は目を閉じて何度も何度もその命を噛みしめた。自然と心の奥底から感謝の念が湧きあがってきて、気がついたら「ありがとうございます」と心の中で唱えながら噛みしめていた。

今日一日の自分の命をつなぐために山の神さまからいただいた、小さな命。

七輪の炭火を見つめながら、僕は、食事が《神事》に変わっていくのを感じていた。

ーーーーーーーーーーーーーーーー

原 伸介(はら しんすけ)/昭和四十七年、横浜生まれ。横須賀育ち。信州大学農学部森林科学科卒。平成七年、二十二歳の時に出会った炭焼きの師の生き様にひと目惚れして弟子入りし、一年間の修行の後、独立。現在、原木の伐採から搬出、炭焼きまでをすべて独りで行う傍ら、職人・一次産業の魅力を若者に伝える活動に命を燃やしている。著書に『山の神さまに喚ばれて』(フーガブックス)『笑顔は無限力』(文屋文庫)『生き方は山が教えてくれました』(かんき出版)松本市在住



松枯れ 学習会 原薫さん
http://youtu.be/azi8VFTR37k

松枯れ 学習会 村山 さん .2/2
http://youtu.be/AKXqKrtF04k


人が生きていく上で忘れてはならない「他の命をいただいて生かされている」という事実を、実感として体に刻みつづけ、それを伝える者が絶えてしまったとき、自然に対する人間の傲慢さへの歯止めをいったい誰がかけるのか。

ウッジョブ!


タグ :松枯れ

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Posted by HAPPY BIRTH CAFE at 11:05│Comments(2)山の恵み
この記事へのコメント
今晩は。

WOOD JOB!ですか。私は観ていませんが
>自分の職場は映画とまったく違う。
に納得しました。

原 薫さんが猟師になった経緯は分かりませんが気合は感じます。
何れにしても生有るものをいただく事に感謝するかどうかでしょう。
農業も然りですが、動物の場合はことさらですね。
グルメ番組見て笑ってる場合じゃ無いって!

ところで、HappyLifeStyleって今日知りました。
http://happylifestyle.com/
何かHAPPY BIRTH CAFEと似ています。
Posted by kita at 2014年07月16日 19:25
kitaさんコメントありがとうございす
そうですね。グルメとか言ってる場合ではないんですよね。
HappyLifeStyle
チェックしてみます!
Posted by HAPPY BIRTH CAFEHAPPY BIRTH CAFE at 2014年07月19日 05:31
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