衣食住遊 イセヒカリ 今日無事生かして頂いてありがとう御座います

2017年01月14日

2017年は江戸時代

2017年は江戸時代
2017年あけましておめでとうございます
今年のテーマは「大刷新」
本年もよろしくお願いいたします


石川英輔著 PHP研究所発行「2050年は江戸時代」より抜粋します


とにかくあの頃の日本では、みんな自分の家族が食べるものを作ることだけに熱中していて、それ以上のゆとりはなかった。私にしても、税金も年貢も払ったおぼえがないから政府は、ほとんど何の役にも立たなくなっていたし、国民、特に農民は、大部分の局面では、政府などなくても、あるいは、政府などない方が、ものごとがうまくいくことを知り始めていた。
日本というか日本人が変わり始めたのは、その頃からだったように思う。強いて大刷新が始まった時期といえば、この食料騒動の頃かもしれない。今にして思えば、あの二年ぐらいの間に、日本人は、ツキモノが落ちたように、ケロっと変わってしまったのだ」
「ツキモノが落ちる、とはどういう状態をいうのですか」
今日は、前の方でメモを取りながら熱心に聞いていた原田医師が尋ねた。
「先生に、そう真面目な顔で質問されると困りますが……」
長老は、笑いながら原田医師の方を向いて答えた。
私の父に聞いたところでは、太平洋戦争の敗戦の時の日本人も、まるでツキモノが落ちたようだったということです。
負けるまでは、日本の男は天皇陛下のために死ぬのが目的で生まれてきたのだ、などといって目を吊り上げていた連中が、ほんの数日のうちにけろっと変わって、天皇制反対、民主主義万歳などといい始めるのは珍しくもなかったそうですからね。
似たような現象が二十一世紀にまた起きたのです」
そういってから、本山はまた聴衆全体を見廻した。
「考えてみると、あの恐ろしい食料不足の時期に、日本人は、太平洋戦争後にアメリカから学んだ生き方が、基本的には自分たちに適していなかったことを腹の底から知ったのだと思う。
あちらは、面積が日本の二十倍以上もあり、世界的にも資源の豊富な大国なのに、人口は日本の二倍ぐらいしかないのだから、お話にならないほど豊かだ。ところが、その広い土地は、原住民を追い払ったり虐殺したりして奪い取り、そこへまた黒人奴隷を使ったりして豊かになった社会だった。
しかも、昭和敗戦の当時から見て、アメリカは南北戦争後わずか百年にもならない間にでき上がったほやほやの社会にすぎなかった。アメリカ文明は、世界の歴史上でもかなり異常な成り立ちなのだが、それを理想社会と勘違いしたのが、当時の日本人の大失敗だったのだ。
たとえていうなら、こんなことになるだろうか。
何代か前の先祖が、村の豊かな家の家族を襲って殺したり追い出したりして、その家を膨大な財産や田畑ともに乗っ取って大金持になった家があるとしよう。ただし、子孫たちは、今では立派な教養を身につけて、ヒューマニズムだの民主主義だのといって悠々と暮らしている。
それに憧れて真似をしたのが、狭い家に住んでいる子沢山の貧しい農民で、五十年もの間、田畑を放り出してサラリーマンをやりながら必死になって現金をかせぎ、月収だけは追いついた。
しかし、大邸宅を買うほどの金はとうてい溜まらない。仕方がないから、家族が心を合わせて夢中で働き、給料を貯め込んでは高級乗用車を買ったり、大勢の子供に教育を受けさせて、ホワイトカラーのサラリーマンに育て上げたりした。
こうやって、見かけだけは,都会人と変わらない暮らしができるようになったものだから、次第に金持気分になり、なまけぐせがついてしまった。ところが、ある時、国中が大凶作になって、金を出しても食べ物が買えなくなった。もともとは農民だったのだから、自分の食料ぐらいは作っているべきだったのに、気がつけば田畑は荒れ放題で、百姓仕事のやり方さえほとんど忘れている。
貯め込んだ金だけはあるものの、食料の絶対量が足りなければ、紙幣など紙切れ同然だ。このまま飢え死にすれば一巻の終わりだが、遅まきながらはっと目が覚めた。
この、はっと目が覚めた時に、今でいう大刷新が始まったのではなかったか、というのが、今度いろいろ考えてみたあげくの私の結論なのだ。もちろん、その当時は大刷新なんていう言葉はなくてただみんな必死で働いていただけだがね」
本山長老は、そういって言葉を切ったが、聴衆が息を呑むようにして聞き入っている様子を見て続けた。
「しかし、あの当時の桃園村の明るさは、今思い出すと何とも懐かしい。
太平洋戦争の時と同じで、いざとなれば、信じられないほど変わり身の早いのがわれわれ日本人の特徴だから、あの時も、国中揃っていっせいに反省したのだな。
明治維新の「富国強兵』、昭和敗戦の時の『平和と自由と民主主義』のようなはっきりしたスローガンこそなかったが、強いていうなら、大刷新の目的は『自給自足』だったのではないかと思う。
あの当時の政府は、今より無力で、そんなスローガンを作って宣伝する能力も意欲もなかったが、今度という今度は、上からのお達しや外国のまねではなく、若い人々が自分から先に立って、「けっして、あのあやまちは繰り返しません」というスローガンを掲げて、工業社会から農業社会への転換が始まったのだ。
太平洋戦争の後では、日本式の農業が古くさくてアメリカ式の工業が新しかったのかもしれないが、大刷新では、その反対だった。工業のおかげでひどい目に合った若者たちにとって、自分の土地で自分の食べ物を作り、生活の基盤を自分ではっきり見ながら生活することこそが、もっとも新しい生き方だと感じられたのだろう。
とにかく、石油が貴重だから、冬にトマトを作るための燃料などにはとても使えない。稲刈りの時、広い水田でコンバインを動かす時のためにとっておいた。やむを得ず、昔ながらの農具を使い始める人が増えた。
父は、晩年になってまた鍛冶屋ができる嬉しさで若返ったようになり、孫を相手にせっせと農具を作ったり修理したりの生活を始めた。もちろん、二人ではすぐに手不足になって若い人が1人弟子入りした。
私も、会社を退職した時に譲ってもらった工作機械を使って機械の部品を作ったりして、その技術を息子や弟子たちに教えた。電力は、ほとんど電灯専用になっていたから昼間は少し余っていて、機械の動力用にも使えたが、この点は、今もほとんど同じ状態のままだ。
化学肥料も農薬もほとんど手に入らなくなっていたから、村の農業生産力を増やそうとして、われわれは、堆肥や下肥の使い方の研究に熱中した。毎日、夕食の後はどこかで研究会をやっていたものだ。
坂下の敏郎さんのお父さんのような古くからの篤農家も、われわれのように中年で帰農した組も、村で生まれ育った生え抜きも、親に連れられて村へ帰ってから成人した若者も、つてを頼って入植した家族も、村でできる作物だけでたっぷり食べられるようにするために、年齢を越えて協力し合っていた。
あとで知ったのだが、驚いたことに、同じような現象が日本中で起きていたのだ。
この頃に起きた変化をまとめて、後には大刷新と呼ぶようになったのだが、何度もいうように、けっして政府が旗を振ったわけではない。政治家たちは、むしろ、税収も政治資金も集まらなくなるような社会に反対して、またもとのような経済大国、工業大国へ戻そうと虚しい努力をしていたと思う。いわば、国民の足を引っ張っていたのだ。
こういう政策も、少しは効果があって、もともと圧倒的に競争力のあったごく一部の製造業だけが、辛うじて国内産業として生き残っている。
だが、大部分の国民は、もう工業に見向きもしなかった。表向きは餓死者が出なかったことになっているものの、都会の住民たちは、身近な者が実質的には飢え死に同然の死に方をするのを見たし、農村では、飢えた都会人が流民になってさまよい、行き倒れになるみじめな様子を見せつけられた。
自分の身を自分で守らなくてはならないことを、身に沁みて知った日本人は、昭和敗戦の時と同じようにあっという間に大反省して、コロッと方向転換をしてしまったのだ。まさに、ツキモノが落ちたようだったよ。
こうして、かつてはあれほど憧れの対象だった都会の生活も、大刷新に入った頃には、まるで麻薬扱いになっていた。目先だけ快適だが、いずれは社会全体を破滅させる危険な生活というわけだ」
私ぐらいの年齢だと、その頃からのことをうろ覚えに覚えていますよ。こんな七五調の囃子言がありましたね」
原田医師は、節をつけていった。
「便利な生活、いのち取り……田畑を耕し、生き残れ」
「そうそう」
長老が懐かしそうにうなずいた。
「確か、あの頃は、分教場が今の桃園村小学校に昇格してしばらくたってからで、当時の校長先生が作ったスローガンですよ。子供たちは毎朝それを唱えてから授業を始めたということでしたな」
「そう。水田や畑で実習をする時は、そのスローガンをみんなで唱えながら外へ出て行ったのを覚えています」
「田畑の実習は、今でも昔と同じようにやっていますが、そのスローガンははじめて聞きました」
しおりがそういいながら、ノートに書きつけた。本山は、うなずいて続けた。
「とにかく、あの頃の村は、一つにまとまって燃えているような感じだったな。
耕地を少しでも増やしながら、村のどの家でも自分の家の井戸で水を汲み、自分の家の落ち葉で堆肥を作り、自分の家の雑木林を燃料にし、入会地の草で堆肥を作り、自分の田畑で作った作物で生活できるようにしよう、という目標を掲げて必死に働いたものだ。そういう作業を続けているうちに、すぐはっきりわかったことは、古い生活スタイルを残していた農家ほど、簡単に自給自足の生活に戻れるということだった。
そのことがはっきりわかるにつれて、若い人々は、真剣に村の伝統的な生活方法を学び始めた。幸いなことに、まだ太平洋戦争以前のことを覚えている人がかなり生き残っていたから、物置や蔵から古い道具などを見つけ出して、使い方を習ったりしたものだよ。
私の父は、その当時の青年たちの動きを見て、面白いことをいっていた。東京時代の人が古いやり方を批判して破壊した時の十倍ぐらいの熱心さで、古い生活方法を復元しようとしている、というのだ。
とにかく、桃園村始まって以来、村民があれほど心を一つにして必死に働いた時期はなかっただろうな。いや、桃園村に限らない。本当に苦しい最中だったが、日本中が新しい生活への希望に燃えているような感じがした。
私の父は、昭和敗戦の時には十代だったから、あの頃のことをはっきり覚えていて、戦争に負けて国中がめちゃくちゃになって、どん底の生活をしていたのに、みんな妙に明るかったといっていた。その昭和敗戦の時と比べても、大刷新の頃の方がみんなずっと活き活きして楽しそうにしているというのが父の意見だった。
しかし、今になって考えてみれば、これは当然だと思う。人類が長い期間を生き延びてきたのは、近代科学技術のおかげではなく、伝統的な生活をきちんと守ってきたせいであることは明らかだ。それに、人類は、近代工業を発達させる目的で生存しているわけでもない。
もちろん、伝統的な生活は、近代的な生活よりずっと不便だが、その不便さのおかげで、人類は種族としての生命力を維持しながら、何百万年もの間生きてこられたのではないだろうか」


2017年は江戸時代



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Posted by HAPPY BIRTH CAFE at 14:41│Comments(4)教育百姓
この記事へのコメント
明けましておめでとうございます。
今年もよろしくー。

大刷新、いいですね。
あたし的にはジャンプの年かな。
準備してきたことがつながって、大きくジャンプできるはず!!
楽しみましょう。
Posted by えみぃ at 2017年01月14日 19:11
>えみぃさん
あけましておめでとうございます。
今年はブログちょこちょこ書いていくつもりです。
コメントありがとうございます( ̄▽ ̄)
Posted by HAPPY BIRTH CAFEHAPPY BIRTH CAFE at 2017年01月14日 21:21
初めまして(^^)
ハッピーレシピの画像を頂きたいのですが、ダウンロードが出来ませんでした(>_<)
Posted by みーや at 2017年02月17日 09:45
>みーやさん
申し訳ありませんでした
セブンイレブンでネットプリントできるようにしますのでしばらくお待ちください
Posted by happybirthcafe at 2017年02月21日 05:38
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